2009年08月07日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その7)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私が陸に上がって機雷を造るようになってから、私は製造会社側の水雷技師として海上自衛隊の横須賀とか東京を訪問することが多くなった。

 そして遂に訓練用機雷納品の後、私自身も入隊することになったのが30年7月で、以後在隊中の略歴は次のとおりである。

      30年 7月 入隊、3佐
           9月 横監総務課長
      31年 8月 2佐
           9月 「もみ」 (佐世保) 艦長
      32年 1月 「はるかぜ」 (佐世保) 艦長
      33年 4月 第2警戒隊 (呉) 司令
           12月 戦史編纂官
      37年 3月 海幹校研究部員
      39年12月 停年退職、1佐

 元来私は学問が苦手のほか、戦時中の疲労によるものか、本態性高血圧症に罹っていて、血圧の高いことを終戦後初めて知ったのは33年半ばの2警司令の時であった。

 一方には海外移住という計画もあり、海上自衛隊において存分の御奉公を果たし得なかったことは残念であった。

 しかし、在隊中の思い出も併せて簡単に記述して御参考に供しよう。

 入隊した途端に、電気会社時代の給料の7割以下に落ちたことは家計を驚かしたが、旧海軍に近い楽しい雰囲気に10年振りで復活できた私にとっては、日々是好日であった。

 3佐横監総務課長時代の演習に際し、臨時第10警戒隊司令を命ぜられ、LS艇6隻を相模灘に指揮し、LSが余りにも少さくかつ普通の船体でないので失望したが、この配置が1佐のものだと聞き、更に驚いたのであった。

 この頃私は国内移住の第3回目として、茅ヶ崎の家邸を売って藤沢に更地を求め、母のためには純日本式の別棟を建て、母屋はすべて板張りにベッド式とし、移住先に順応しやすい新生活とした。

 そしてこの家は移住しないでそのまま一生使ってもよいように私は思ったが、子供たちは 「下宿屋のようだ」 と言って笑った。

 そして新築なって引っ越の時に総務課員が休日に多数加勢に来てくれたことは、隊員同志の温さが身にしみて、いまだに嬉しい感謝の思い出となって残った。

 2佐になって佐世保のPF「もみ」艦長になったが、この型よりはるかに高性能な一字銘水雷艇長を拝命した昔から数えて14年目であって、ここでようやく護衛を論ずる立場に仲間入りさせてもらったのである。

 教科書は大体よくできているとは思ったが、それはあくまで金持ちの教科書であって、貧乏人の教科書としては時代に合わないように感じた。

 しかし隊内の皆さんは向学心強く、この教科書だけを金科玉条としてよく勉強していて、今更15年前の戦訓、老兵の昔話などには余り関心はないかのようであって、「護衛戦に関する引継ぎ」 を移住前にしておこうと考えていた私をして失望させた。

 この頃戦後再開の南米移住が始まり、現地情報も入手できるようになり出した。

 「再び砲とらずして大和民族の困難な前途を拓くために、海外雄飛こそはその重要国策の一つである。」

 という念を一層かき立てた。
(続く)

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