2009年08月06日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その6)

著 : 森 栄(海兵63期)

 佐賀までの第1回移住を終わり、引き続き佐賀の家を処分し茅ヶ崎までの第2回の移住を果たし、早速横須賀米海軍基地労務者として勤め、そこではかつてのキスカ島指揮官秋山大佐 (注) などとPF艦の当番に立った。

(注) : 秋山勝三氏は、キスカ撤退作戦時の第51根拠地隊司令官、終戦時は横須賀鎮守府人事部長・海軍少将、海兵40期


 冬の夜ズタ袋を縫いながら廃材をストーブに燃やし戦時中の思い出を語り合うことは愉快であったが、米海軍水兵の指揮を受け、深夜糧食泥棒の片棒も担がねばならず、屈辱的な日々が約1年続いた。

 ある日横須賀線のデッキで、印度洋水雷艇「雁」時代の大久保機関長附と8年振りに奇遇再会し、同氏のお世話で同氏乗組中の航洋曳船兼救難船々長に就任した。

 この船は旧米海軍ATR−12号であって、戦時中米海軍が被害空母などの曳航救難のため急造した木造船であったが、同種の船としては当時日本で最高性能を有していた。

 そして産まれは米国、船籍はパナマ、船主はフィリピンのマニラにある会社、傭船者が東京の丸の内にある日本の会社という複雑な船であったが、乗組員は全部日本人で士官の大部は海軍の残党であって、船尾にパナマ国旗を翻して大阪などに入港するや、税関吏は私たちを日本人と見ず、パナマ人又は比島人と間違う始末であった。

 この船で長崎三菱造船所建造の2万トン乾船渠用扉船を比島サンフェルナンドに曳航し、帰途旧海軍特務艦 「襟裳型」 (15,000トン) を長崎まで曳航し、サンフェルナンド湾を約8年振りに訪問し、湾内に戦時中の沈船のマストがまだ残っているのを感慨深く眺めた。

 その他近海の救難曳航などをやるうち、日本の会社が自前の同型船を新しく買ったのでこれに移ったが、のち家族の病気によって足を洗い、陸に上がって海上自衛隊に納入する訓練用磁気機雷の製造に従事した。

 この頃私は、造船所で見るような線表を家族各個人について作成し、子供達の移住準備が進むのを楽んだが、どんな子供でも1年たつと年齢が必ず一つ増えること、すなわち同速であることが便利であることを悟った。

 そして何も知らない無邪気な子供達5人のこれからの長い人生の針路を、私達夫婦の、否主として私の方針で遠く異国に移住して行くことの功罪を検討し、繰り返し繰り返し思いをめぐらし、眠れない夜もあった。

 そして私が航洋曳船々長として海上を走り回っている頃、海上自衛隊が出来たようであって、既に入隊した級友の噂も耳にするようになった。
(続く)

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