2009年08月04日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 妻の同意を得てから私の移住計画は公式のものとなり、今後一切の日本生活は移住準備に資するということになったが、山の中の寒村では海外ニュースもなく、また当時は日本国としても外国との文化交流は中断のままであったので、取り敢えず移住先をアルゼンチンに予定した。

 その頃私は重荷用自転車で刃物を荷台に積み、2歳になる次女を背におぶって、東南約30キロの佐賀市に毎週走った。 次女はスッカリ私の言葉を覚えて、回らぬ舌で 「お父ちゃん、肩車にのって早くアルゼンチンに行こうよ」 と言って私達を笑わすのであった。

 また別に私は村の中にも同志がいないかと思って、組合内の会合時に番茶を飲みながら海外移住を説いたものの、海軍にいた人でさえ直ちに賛成する人はなかった。 当時は彼らにとって南米は余りにも遠い図であった。

 思えば私の海外進出計画は、2隻の単独艦艇長を歴任した習慣そのものから産まれたものであった。 戦時中は上級司令部から与えられた新しい任務に基づき、次々に展開される彼我の状況に応じて自艦の行動を決心したのであったが、帰村してからの私には目標となる任務がなかった。

 目標なくして漫然艦(生活)を進めることは到底できなかった。 この心の空しい生活のなかに産まれ出たのが海外進出計画であった。 その状況の分析と判断と決心は余りにも長くなるので省略するけれども、いまや私には1万9,000馬力の艦もなく、200名の部下もなく、一等親以内の家族計7名だけのことを考えれば済むのであった。

 2等親以上を海外移住に誘い出すことは私の力にも及ばないことであったが、一等親以内に対しては今後の近き将来約50年間に関して、地球上のどこに居を置くことが彼らの安全と発展にいかに寄与するかという問題を考えることは、家長の最高の責任であり義務であり、家長が宣言するならば家族はついてきてくれそうに思えた。

 私は自宅付近で最も大きな町であった佐賀市に出たとき、移住先予定のアルゼンチンの言葉を知るために、「スペイン語4週間」 を買ってきて独習したが、これはだれかに模範を示してもらわないと、読むだけではなかなか物になりそうにはなかった。

 そうこうしているうちに、25年7月10日、突如としてこの田舎にいる私に、東京の第2復員部長からの至急官報が来た。

 「連合軍要務のため至急第2復員局へ出頭されたし」

 丁度朝鮮戦争の勃発した直後であった。 世の中から捨て去られたとばかりに思っていたが、再び国家の要請があったかと驚き勇み立ち急ぎ上京して連合軍へ出頭してみれば、米海軍の若い日系2世が南鮮の海図を示して、「この海域を知っているか?」 と問う。 「知っている」 と答えたら、「連合軍の作業に協力してくれるか?」 と問う。 私はしばらく考え、終戦後の米海軍の行動が一応信頼に値するものであることを思いながら、「OK」 と答えた。

 この面接のあと2復で聞いてみると、全国から呼び出されたのは少将から大尉にわたり、大佐中佐を主とし、少将少佐が副で大尉がごくわずかであって、計約150名(?)ぐらいの規模で、私達に協力させたいことは軍隊輸送の水先案内のようであった。

 ここで十分な旅費滞在費を貰い、元の上根森司令官、支那方面艦隊小田切首席参謀などの在京先輩を始め級友などを訪ね、今次東京都周辺の都市に進出の時機であると判断した。 それまでは東京大阪などの大都市は食糧不足のため転入が許されていなかったのであった。

 そしてまた連合軍の要請に対し、私のように 「OK」 と答えた者は余りいなかったことも聞いた。 「敵さんにこれ以上こき使われることは真っ平である」 と思った人が多かったらしい。

 最後に横須賀米海軍基地の古村少将 (啓蔵、40期、終戦時横須賀鎮守府参謀長) を訪ね、同基地における今後の就職をお願いして故郷に帰った。
(続く)

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/31062260
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック

ケノーベルからリンクのご案内(2009/08/05 09:06)
Excerpt: 佐賀市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
Weblog: ケノーベル エージェント
Tracked: 2009-08-05 09:07