2009年08月03日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その3)

著 : 森 栄(海兵63期)

 その後佐賀市で療養中の唯一の弟は、結核が悪化し栄養は採れず遂に戦病死した。 これを看護した母は、戦争中とその直後で、私の父と祖父母と妹とそして最後に弟の計5名を見送ったのであって、母は 「死んでゆくより見送る方がはるかにつらい」 と言った。

 また弟は終戦直後の祖国の急変を眺め、祖国の将来を悲観し、自分は帝国海軍の美しく楽しかった思い出を抱いて死んでゆくのだと言った。 私は引き止める言葉に窮し、今や子供でないむしろ共に戦った戦友である弟の希望に同感し、私ももし独身であったら弟と同行したいくらいであったが、それは許されなかった。

 祖国に反抗して国外に逃れていた者達は凱旋将軍のように迎えられて祖国に帰ってきたのであるから、弟がそう予想したことも無理はなかった。 昭和22年頃の祖国の姿はこのような状況であった。

 私は毎晩護衛の夢を見、ガバ!とはね起き 「爆雷戦!」 と怒鳴り、家内は狂人のような私の袖を引き 「戦争は終わりましたよ」 と言うのが毎回のことであった。

 私の耳の中には、探信儀の発信音と反響音が巣食っていて、これも寝につくと毎晩出てきて私の神経を戦場に引き戻すかのようであった。 戦場で最も苦労したのが約3年だったから、この反響音も3年ぐらいで退散するだろうと予想したが、本当に退散したのは戦後5年目であった。

 この頃、私の耳もおかしくなっているのに気がついた。 これは対空戦闘の発砲音によるものであったが、高雄沖の艦載機毎日300機の3日間を思えば、耳の小々の故障ぐらいは有難いと思った。 しかしこの故障は着伯後の葡語会話に大きな支障を与え続け、今日に至っては年齢とともに更に悪化しつつある。

 そして昭和23年、古い農家の養蚕室兼用ともなっている座敷で、私は毎晩考え続けた。 私の周りには戦争前と戦争中に生まれた3人の幼児とその年生まれたばかりの赤ん坊がスヤスヤと寝ていた。 私の

 「海外に出よう。 大和民族の前途は海外に求めるよりほかにない。 幸いに私は海軍に身を置いていたのであるから、大和民族のなかでは最も外国に慣れやすい部類だ。 新しい日本の海外発展の捨石とでもなれれば、戦に敗れた前半生の償いともなろう。」

 という方針は、幸いに家内の同意を得た。

 この海外進出発想の地である私の原籍地は全く日本の縮図のような一寒村であって、多くの耕作者達は私の 「小作地を返してくれ」 との懇願に対して正面切ってこう答えた。

 「森さんには本当に悪いが、私達にとっては、この際田畑を手に入れなかったならば、金輪際こんな機会はこないでしょう。」

 私はなるほどと了解した。 日本は余りにも国土狭少に過ぎるという実感が、この村には溢れていた。
(続く)

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