2009年08月01日

聖市夜話(第40話) 正錨の夢 (その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 長い間御愛読いただきありがとう。 これで私の聖市夜話を終わります。

 思えば3年7箇月間の昔話に、貴重な紙面を3年4箇月間にもわたって汚した次第で、もし私の昔話が逆の効果でもありましたら、平に御容赦を得たい。

 若き日に私達は江田島で5月27日の海軍記念日を、今年は第28周年記念日であるぞと教えられ、おとなしく戦史講話を聞いたのであったが、腹の中では 「また30年近く前の昔話か」 と思った。

 しかし今や私はそれよりも更に古い32年前の話を、しかも地球の対蹠点から、長期にわたって放送してきたのであるから、更に罪が深いかもしれない。

 しかし当時の講師は大抵体験者ではなく代弁者の話であり、かつその内容はいつも勝ち戦であった。 この昔話は当の体験者でかついつも負け戦であるという意味で、長い下手な話ではあったが、英敏な諸君が何がしかの教訓を汲み取られて、今後の御参考に活用していただければ幸いである。

 御縁も深くなった諸君に、最後に 「その後の私」 についてもその大要を記述してみたいと思う。

 21年4月末、佐賀に復員した私に、海軍の残務処理部ともいうべき第2復員局からきた電報は、「復員艦の「槇」艦長にならんか」 というものであった。

 今後の自活の道に苦しんでいた私にとっては、慈母の心遣いのように有り難い電報ではあったが、当時の私の健康はガタガタに傷んでいた。

 上根で終戦後私達幕僚は過労の果てマラリヤにやられ、池田大佐はじめ次々に倒れたことがあったが、その後の養生もできていなかった。

 しかし私にとっては、たとえ終戦後であっても丁型駆逐艦長を体験できる点で大なる魅力もあったが、私は今後の苦難な人生を考え、この有り難い辞令をキッパリと辞退し、向こう6箇月は体力の回復に専念する方針に決した。

 あとで反省してみて、この6箇月の休養は極めて有効かつ貴重であったが、博多で貰った退職金500円で家族7名が食って行けるわけではなく、しばらく 「売り食い」 が続いた。

 この頃、駆逐艦「朝顔」が終戦後の命令で母港舞鶴へ回航の途中、関門海峡で触雷し、下関側海岸に着底していることを聞いた。 しかし私には下関まで行く暇はあったが旅費がなかった。 私は母に相談した。

 母は最後まで膚身離さなかったダイヤモンドの結婚指輪を出してくれた。 私は亡き父が母に贈った当時を想像して心がジーンとするのであった。

 しかし、私の生命の恩人である名馬「朝顔」との最後の訣別にも、これに劣らぬ貴重さがあった。 母の指輪は十分な旅費となった。

(注) : タイトルの 「正錨」 は 「まさいかり」 と読みます。 艦艇が出港する場合、錨を揚げて水面に見えてきた時に、錨が自分の錨鎖に絡むなどしておらず、“正常”の状態で揚がってきたことを意味する言葉です。 前甲板からのこの報告を聞いて (艦橋からは見えないので)、艦長は始めて前進の機械を使います。 これを 「航進を起す」 と言います。

(続く)

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