2009年07月30日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その9)

著 : 森 栄(海兵63期)

 このように艦が上海に在泊していて、司令部の直接交渉可能の場合にはまだ艮かったが、上流にいて電報以外に連絡の方法もない残留員の日々の境遇こそは、全く苦労の明け暮れであった。

 しかし中国側の急速配員も日時の経過とともに少しずつ捗り、1月10日 「第1黄浦丸」 残留員が撤退完了したのを皮切りとして、3月8日「興津」3名、「番陽」6名の撤退完了で苦難多き艦艇の撤退集結を終わったのであった。

 そして陸上を含み全員の撤退集結が完了したのは、4月11日旧上陸電信所47名と旧第2送信所18名の撤退であって、前年9月13日の接収開始以来実に7か月間、延々として武装解除に長日時を要したのであって、特に艦艇の撤退が終わるまでは司令部員の心の休まる日はなかった。

 私はかつて 「武人は最後まで武器を手放してはいけない」 という、山口多聞 「五十鈴」 艦長の教を肝に銘じたのであるが (聖市夜話第24話)、上記上海方面艦艇の撤退の苦心に鑑み、この時は相手の事情が許さなかったけれども、

 「艦艇の異国間引継ぎは、基地において艦艇長以下全乗員一挙に行うべし。」

 という一般的な強い教訓を得たのであった。

 上記の間、最も危険の多い掃海も9月9日に始まって11月29日に無事完了したし、還送 (引き揚げ) 関係も11月9日に始まって1月上旬以後本格化し、3月末で累計約1万6,500名に達し、10月中旬始まった復員教育も各部隊の撤収、集結が逐次行われるに伴ってだんだん本格化して行き、落ちついて帰国準備をするようになって行った。

 私達は忙しくて、2大集結地の復興島及び浦東集中営を訪問する機会には余り恵まれなかったが、六三園司令部の中でも英語講座が始められたり、時に演芸会があり面白い芝居をみて全員腹の底から笑うこともあった。

 一番心に残ったのは 「終戦某年後」 という一幕で、現在の階級に関係なく各人がそれぞれ成功没落の運命に流され、同じ道路上に某年後再会する光景を展開したものであったが、私は心の中で 「森参謀乞食になるの図か」 と将来を自信なげに心配した。

 全く私などは焼け野ケ原の日本に立って、どうして家族を養ってゆけば良いのか皆目名案とて心に浮かばなかったのである。
(続く)

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