2009年07月26日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 この砲艦が温州(?)かに寄港した際、乗組士官は喜々として上陸して行ったが、私達二人はもちろん艦内から一歩も出るわけにはゆかなかった。

 私達は舷窓から桟橋近くを眺めて時間を費やしたが、沿岸通いの客船が在泊中の短時間を利用して、素早く客用の薄いふとんのカバーを外し、泥水の中で洗い、岸べりで太陽に乾かし、再び素早く大きな針でふとんに縫いつけて行く工程が面白く日に映じた。

 そして手際よく作業してゆく中国の中年婦人のたくましさに強く教えられた。 私は内地復員後この中国式ふとんの作り方、洗濯法を我が家に伝え、中国婦人の勤勉さを思い出すのであった。

 最後に、機帆船同便の時の主人公は中国海軍中尉で、陸上にいるある指揮官の副官であったが、この行動では指揮官代理として接収任務を代行していたのであるが、この主人公と私の寝台は約2メートルを隔てていた。

 夜になり私は早速南京虫の来襲を受け、到底眠れることではなかったが、主人公はいかにと見ると、金モールの腕章のついた軍服そのままで眠っていて、時々無意識に手でかいているものの遂に目を覚ますことがなかった。

 私は連続ボンボンいう焼玉エンヂンの音を耳にしなから寝台につくねんとして腰かけ、眠れない一夜に敗残の身を悲しく思うことであった。

 以上のような離島接収も終わり私は上海に復帰し、我が方では10月21日から復員に備えて復員教育が始められたが、当時の予想では復員用船舶が日本側所有船だけでは数が少なくて長い年月を要するので、どうしても米国側の大きな協力が要望されていた。

 11月に入り、近く最初の還送が始まるとて軍民合同の還送会議が行われた。 民間関係は総領事館の某副領事、陸軍関係は暁部隊、海軍関係は上連が担当として一堂に会して基本方針の打合せが行われたが、席上陸軍の某中佐参謀が腰からやおら 「矢立ての硯」 を引き抜き、別に公告用でもない全くの個人用覚書を席上毛筆をもって記録するのには驚きかつ呆れてしまった。

 そして上海方面からの日本・台湾・韓国あての還送は11月9日から始められ、この第1便である 「第5米丸」 には各部の連絡員が乗り (海軍関係は吉田謙吾中佐(58期、終戦時「鳥羽」艦長)以下)、博多向け同日上海を出港した。

 これでようやく我々にも帰国できる順序がくると軍人一同は大喜びであったが、営々として父祖の代から上海における財産を築き上げてきた在留邦人にとっては、還送をうけることが一切の財産を失い丸裸になることであって深刻な問題であったが、中国側の検査は厳重で、その言い分は 「中国において築いた財産は全部中国に置いて帰れ」 ということにあった。
(続く)

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