2009年07月25日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私達が六三園に監禁されたすぐあとの10月13日までには、上海在留邦人も北四川路以東の虹口・揚樹浦・江湾地区の方面に集中するように、中国側の命令があった。

 次いで10月14日には、上根麾下の離島部隊である舟山島方面部隊が、また17日には同じく泗礁山部隊が、いずれも中国海軍により正式接収されていった。

 私はこの頃、中国語の上手な海軍中尉を帯同して中国海軍の砲艦及び元日本建造の機帆船に同乗して、中国海軍側の接収に立会ったのであるが、その時の2、3の思い出を次に御紹介しておこう。

 その一つは、泗礁山接収の際、日本側は軍事点検のように各建物の中に整列している間を、中国側は接収官を先頭にして1列に進み、各建物の中を順序に巡視して行った。

 このとき接収官の約10名ぐらい後方を進む中国海軍士官が、整列している日本側の古い下士官の前で2〜3秒立ち止まり、下士官の顔をさも懐かしげにまじまじと眺めこんで、あと急いで再び接収官の列に復旧した。

 この下士官は突如のこととて、薄れていた昔の記憶を盛んにたどった。 両者は同年配であった。 暫くして同兵曹がようやく思いついたのは、「彼は海兵団における同年兵であった」 ということであった。

 この中国海軍々人がいつ頃日本海軍を辞め中国に渡り、いつ頃中国海軍に就職したのかはもちろん明らかではなかったが、接収する側とされる側に、若き日の海兵団の同年兵がいたということは、全く珍しい思いも寄らぬことであった。

 次に私が同乗していた約1,000トンの砲艦々長(中佐)は学者風の紳士で、副長談によれば艦長は日本語の読み書きはできるが話すことはできないとのことであった。

 副長(少佐)は艦長より年上で、日本語も一通り話し、山東省出身で、日本食で不自由しているだろうとて山東省名物の色々な饅頭を作って私たち二人に御馳走してくれたが、艦長以下艦内一般の空気は日本海軍を尊敬すること厚く、日本海軍が敗戦したことに対し深い同情の念を抱いていた。

 また同艦の若い主計中尉は一番日本語が上手で、精神面にわたることまで細かく表現し、私が忙しいことを慰めて、「中国語には能者多労という言葉があります」 と教えてくれた。

 この主計中尉とともに離島内の坂道を登り山腹の山寺を訪ね、中国側の大小様々の額の中に、金色燦然とした浪速の商人何某の寄進した一際目立った額を発見し、同中尉とともに中支沿岸におけるかつての中日交流の歴史を偲び、同時に将来における極東の和平を語り、私は同中尉の有為の人材なることを愛しその大成を祈念したが、同中尉は言葉少なく静かに 「個人の力は微力です、世の大勢には抗することができません」 と笑って答えた。

 私はこの教養深き主計中尉の名前を失念したことをいまだに残念に思っている。
(続く)

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