2009年07月22日

聖市夜話(第39話) 鉾をおさめて(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 艦隊参謀長は左近允中将(尚正、40期)であったが、聞くところによると17年3月連合艦隊が印度洋一掃作戦のとき、当時第16戦隊司令官(少将)として参加され、拿捕した貨物船の乗員取扱いの件で、英軍の追及に対し全責任を負われたとのことであり、最悪の場合が予想されていた。

 たまたま森司令官は参謀長と海兵同期でもあり、司令官は昼の仕事が終わると毎夜のように参謀長室を訪ねて懇談激励していたが、参謀長は泰然自若、従容として迫まらず、いつも両雄の間は春風駘蕩という光景であった。

 司令官は 「年寄りばかりでは面白くない」 と思うとすぐ池田先任参謀を呼んだが、先任参謀は毎夜2200以後まで仕事で忙しく、「オイ森参謀代わりに行ってくれ」 ということで私が両雄懇談の席にしばしばかり出された。

 参謀長は既に長男(正章)(69期)を戦死させていた(少佐、「島風」砲術長)ので、生き残った次男(尚敏)(72期)が復員駆逐艦「初桜」先任将校として活躍中であることを喜び、私との間に「初桜」の行動が話題となることが再三であった。(注)

(注) : 左近允尚敏氏は戦後海上自衛隊に入隊され、最終は統合幕僚会議事務局長・海将で退官されました。 現在も戦史研究などでご活躍中です。


 私はここで武人の在るべき態度について無言の教訓を強く刻み込まれた。 このようにして部下の誤ちは我が責任として、潔よく終戦後刑場の露として散っていった指揮官が数多くあったことを思い、ここに参謀長の一端を御紹介しておく。

 艦隊の首席参謀は、私たちが生徒時代最も若い砲術科教官だった小田切大佐(政徳、52期)であったが、再びここで幕僚道のいろはを懇切に指導されるに至り、これを御縁として個人的なつながりは以後30余年、ブラジルの今日まで続いている。

 その他の艦隊司令部は、参謀副長の少将を始めとして大佐、中佐の大先輩がズラリと約12名で、かつて中国全海岸及び場子江を指揮したこれらの幕僚にとって六三園は余りにも窮屈そうに見受けた。 そして若造の私にとって一番心やすく物を尋ねることができたのは、やはり昔の一号生徒であった朝田(現姓久原)参謀(一利、60期)であった。

 このような陣容で六三園の生活は開始されたが、これが森司令官と私にとっては翌年4月末の日本帰還まで続いたのである。
(続く)
この記事へのコメント
回想録 『聖市夜話』を拝見させていただいております。

左近允尚敏氏のお名前に心当たりが有りましたので記憶を頼りに調べてみたところ、戦時中の駆逐艦「梨」(戦後に引揚後、護衛艦「わかば」)の艤装員をされていた方で「なにわ会」のホームページ中の「戦記関連」項で詳細な戦闘の様子などを寄稿されております。

Posted by おおいし at 2009年07月22日 18:49
 おおいしさん、ご紹介ありがとうございます。

 左近允尚敏氏は、海自在職中から執筆活動を盛んに行ってこら、今でも多くのものを次々と発表されていますね。

 ご自身の体験談としては、ご紹介の「梨」航海長でのものの他、「熊野」航海士としてのものが有名で、ご紹介のサイトにある「重巡熊野の最後」はその一つです。 この体験談には幾つかのバージョンがありまして、私の知る限り「レイテ海戦における巡洋艦“熊野”の戦闘について」と言うタイトルのものが注釈や付図がついて最も詳しいものです。

 なお、氏は現在、海自有志などで結成する「兵術同好会」の会報誌「波濤」において戦史関係を長期連載中です。
Posted by 桜と錨 at 2009年07月23日 00:52
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