2009年06月26日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 船団が門司に着いたその直後、我らの僚船「満州丸」は船体損傷と搭載物資のため余程先を急いだのであろう、瀬戸内海を単独東航中、姫島北方の中央航路上で触雷し遂に沈没したことを司令部で聞いた。

 「「満洲丸」だけは万難を排しても門司に入れたい」 と泗礁山泊地で決心した私を始め朝顔乗員は、泣くにも泣けない落胆に襲われ、我々の最後の必死の行動よりも、敵の功勢の方が遥かに先手をとっていることを如実に思い知らされた。

 当時の関門海峡は3〜4日に1回ぐらいの敵B29の機雷投下を受けていた。 そして掃海部隊が掃海し終わらぬうちに次の機雷投下が行われ、通航禁止が解除される頃にはまた敵機雷が投下されていたので、多数の艦船は動くに動かれず関門に釘付け状態であった。

 そして20年2月15日から連合艦隊第1駆逐隊という軍隊区分にあった「朝顔」は、5月8日海上護衛総司令部部隊に変更されたが、前の第1駆逐隊といっても別に隊を編成して走ったこともなく有名無実の軍隊区分のように感じられた。

 次いで12日いよいよ呉鎮護衛部隊が発令され、翌13日には呉防備戦隊が発令され、門司から呉に行かねばならぬことが現実に近くなった。

 この頃敵の夜間の機雷投下に加えて昼間の小型機の侵入もあり、10日12日13日には敵空襲の恐れによって港外(六連と記憶している)に避泊し即日帰投を繰り返し、14日には港外(六連)に1泊して翌日門司に帰投している。

 某日には門司岸壁横付けのまま敵機を迎え泊地援護のため煤煙幕を展張したこともあり、また夜間は大型機の投弾によって横付岸壁付近の民家に火災を生じ、近くの海軍宿舎に寝ていた乗員が駆け足で帰艦するということもあった。

 私は今後関門方面の通航許可の出る見込みは絶望的であると判断した。 そして呉鎮守府に電話してみたら、呉方面の通航も同じく絶望的であることを知った。

 局地指揮官の通航許可が出なければ私達在泊艦船は出港することができなかった。 しかも許可の出る見込みは絶望的であったから、関門を墓場と考えてじっと耐え忍び運命の神に身を委ねるのが当然であったかもしれない。

 しかし「朝顔」の張り詰めた士気は、「このままおめおめと爆撃目標になってたまるか」 という強い気迫と、「敵の攻撃には必ず盲点があるはず」 という百戦練磨の経験と、また呉防備戦隊編入という1段次元が高いと思われる命令があった。

 また私は「右にせんか左にせんか」 と迷うとき、積極的に打って出ることが武人の道であるという葉隠れの教訓にも似た信念を抱いていた。

 実際この場合私は通航禁止を理由として、たとい終戦まで門司に停泊を続けていたとしても、私は何ら責任を問われることはなかったであろう。
(続く)

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