2009年06月25日

聖市夜話(第36話) 機雷の関門を突破(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

  20年5月2日船団門司帰着の日、遂に「朝顔」の長い護衛任務はその終結を言い渡されるに至った。

 振り返ってみると、開戦時既に艦齢18年であった「朝顔」は、艦長杉原与四郎(57期)少佐指揮の下に16年12月6日南鮮の鎮海を出撃し、暫くは対潜対空哨戒に任じ、17年1月から4月下旬までの哨戒の間に時々合計4回の護衛に従事した。

 終わって艦長大西勇治(57期)少佐の時代となるや護衛行動は連続継続し合計50回の行動を果たしている。

 次いで18年10月下旬私の時代となってから合計44回の護衛を果たしたから、開戦以来の総護衛回数は98回に達していた。

 大正12年5月10日石川島造船所にて竣工し、当時36ノットの水雷戦隊の花形として活躍した「朝顔」も、艦齢既に今や23年であった。 よくぞ戦いたり。 よくぞ黙々として長き苦難に耐えたり。

 今や同型の僚艦は1隻もなく祖国の前途は終末に迫っていた。 私は「朝顔」を名馬「朝顔」と呼びたい。 私は「朝顔」の馬首をたたき涙のうちにその抜群の功績を賞し、強風怒涛の中の追敵萬里の苦労をねぎらうのであった。

 また 「我艦を守り、艦また我を守る」 ということは朝顔乗員の信念であったが、「朝顔」は遺憾なく我々のこの信念に応えてくれたのであった。 朝顔乗員は名馬「朝顔」を生命の恩人として感謝し、この心は乗員等しく生ある限り忘れることはできないであろう。

 私は戦時中、印度洋の水雷艇「雁」時代も、またこの「朝顔」時代も、入港して暇があればよく馬に乗った。 その鞍数の思い出は彼南、照南から始まって門司まで続いている。 そして人馬一体の境地は、対敵行動中の瞬時も油断のできない駆逐艦乗りの境地に極めて似ていることを知ったのであった。

 これから瀬戸内海に入る、ゆっくりなったら鞍を降ろして背中の汗をぬぐってやりたい。 また大好きな人参の新鮮なものを毎日食べさせてやりたい。

 私は横付岸壁から艦に入った。 案の定先任将校以下の乗員は次の任務いかんと私の帰艦を待ちわびていた。 私は総員集合を命じて「朝顔」の新しい任務と行動を話したが、総員の気持は 「よくぞ戦い尽くした」 という、各自が己自身に言い聞かせる大きな誇りで一杯であった。

 そして瀬戸内海は周囲が皆日本であって、水中には1隻の敵潜もなく、ただ空からくる敵機と、これが落とす機雷だけしかなかった。 これなら常時敵雷跡に神経をすり減らした今までに比べ全く極楽であった。 万一たとい爆弾命中しても、あるいは触雷しても、懐かしい瀬戸内の水は温く岸まで泳ぎ着くのに具合いが良さそうに思えた。

 この大きな心の寛ぎは、今までよく戦った乗員に対する一番大きな無形の御褒美のようであった。 長い間張り詰めた神経で肩の凝った重荷もなくなり、新しい呉鎮部隊の任務が楽しく想像されるのであったが、これはもちろん祖国の将来を心配する心とは表裏のものであった。
(続く)

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