2009年05月09日

聖市夜話(第35話) 最後の大上段(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 20年4月12日、哨102とともに空船2隻を連れて泗礁山泊地に着いた我々の眼前に展開された光景は、対潜掃討隊の任務続行中の第102戦隊の約10隻と、南方海域の各船団から命からがら生き残り長江沖まで辿り着いたという4隻の貨物船であった。

 対潜掃討隊というのは前々から考えられていたが、実現したのは20年1月で時既に遅く、私達が台湾から追っ払われて離脱北上のころであった。

 旗艦は練習艦の「鹿島」で私達から見ると、長い図体に合った水測兵器を持たず、むしろ逆に護衛艦の護衛を要するような存在であった。

 麾下兵力は全部海防艦で約10隻であって、各種海防艦で揃っていて頼もしくかつ美しいと眺めたが、護衛艦不足で悩んだ過去を振り返ってみると夢のようで、万事が手後れの感じであった。

 約1年前これだけの掃討隊が、バシー海峡の護衛強化をしてくれたなら、どれだけ被害を軽減してくれたであろうか、と思ったがそんなことは愚痴であって、昔を今に返すことはできなかった。

 またこの隊が駆逐艦を1隻も持たぬことも心配であった。 海防艦だけと知った敵潜は、かつて駆潜艇の低速をばかにして視界内に悠々う浮上し「ここまでおいで」と悠々と逃走したような類似な作戦をされるのでないか、とも案じられた。

 やはり海防艦群には駆逐艦または一字銘水雷艇の1隻をつけてこそ、「わさび」が効いてくると思われた。

 102戦隊司令官はH少将(まま)(浜田 浄、42期)であって、私が印度洋の「雁」水雷艇長であった時の第一南遺艦隊参謀長であった。 先任参謀は長く高雄の第1海上護衛隊の先任参謀であったU中佐(まま)(既出、魚住頼一、この時点では大佐、52期)であった。

 また麾下兵力中の81号海防艦長は私の上記「雁」時代のS先任将校(まま)(既出、坂元正信、予備大尉)であって、お互いに武運めでたく洋上第1線において約2年振りに懐かしの再見をして限りない懐かしさに互いの健闘を喜んだものの、そこには既に、昔のような祖国の栄光はなく、危篤の病人の周りに為す術も知らずに右往左往する親戚縁者の集まりのようなものであった。

 次に貨物船の中の最大のものは、約5,000トンの「満州丸」であって南方から搭載してきている非鉄金属(ボーキサイト,タングステンなど)のため、電報にも重要船という指定のある船であって、南方で被害を受け片舷側のフレーム10数本を損傷し、浸水のため停泊中でも常時必死の排水作業を継続中のものであった。

(注) : ここで出てくる「満州丸」は、大連汽船所属の貨物船で、総トン数5266トン、大正10年に横浜の内田造船で建造された方で、昭和19年にフィリピンで沈んだ日本海汽船の貨客船「満州丸」(総トン数3053トン)とは別の船です。


 後の3隻も同じく南方から幸運の北上を成し遂げてきた約3,000トン級1隻と約1,000トン級2隻であって、この2隻のうち大きい方だけが中速(約10ノット余り)であって、他の船は「満州丸」も含めて低速(約7〜8ノット)であった。

 これに対して私が連れて行った小型船(約1〜2,000トン)2隻が加わったので、貨物船は合計6隻となったが、私の連れていった2隻のうちの小さい方(約1,000トン)は中速(約10ノット)であった。
(続く)

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