2009年05月06日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 ある時この実習中、岸壁に取った舫索を一杯に伸ばしてしまい、「朝顔」の船体が強い流れに横倒しになってしまって、先生株の私が手を出さねばならぬこともあった。

 また酷かったのは浮標に取った舫索を伸ばすうち、「朝顔」の横腹に別の浮標が近づき、ついにこの浮標を支点として「朝顔」の船体が横圧を受け、しばらく強い流れと猛烈に戦ううちに浮標の浮力が負けてしまって、「朝顔」の機械室の下に潜り込み、ガラガラと船体を擦りながら反対舷にポッカリ猛烈な勢いで飛び上がってきた時は、さすがの私も 「また三亜の二の舞をやったか?」 と肝を冷し、艦内各部に 「浸水はないか?」 と繰り返して心配したのであった。

 こうして艦長戦死の想定による荒療治の訓練は、訓練場所が余りにも強流過ぎる門司であるという理由などもあって、以後は断念せざるを得なかったが、この間題は平時にもやはり解決しておくべきものと思われた。

 それには、状況平易な錨地で操艦教範の 「いろは」 から、艦長が手を取って教えてゆかねばならないと思う。 「想定艦長戦死」 のやり方のごときは応用訓練に属するもので、その前に平易な基礎訓練をみっしり積み上げておかないと、大事な艦を損傷する恐れがあることを知った。

 門司港岸壁の前で大きな軍艦浮標の上を乗り切ったときの驚きは、いまだに忘れることができない。 またあのような手荒なことを考えたのは、私も当時相当に殺気立っていたものと回想される。 関門海峡の強流などは敵とも思っていなかったようである。

 さて、話を本筋に戻そう、鉢小島に「第2高砂丸」を送り届けた「朝顔」は、「佐世保に回航して佐世保鎮守府司令長官の命により行動せよ」 ということになった。

 第1護衛艦隊から見ると佐鎮部隊は他の部隊であって、今まで何の馴染みもなかった。 私は入港して久し振りに美しい佐鎮構内の懐かしい風景に接した。

 幕僚室に入ったら担当参謀の助川弘道中佐(55期)が忙しそうに早口で説明した。

 「敵は沖縄を狙っているらしい。 君は哨102と貨物船2隻を指揮して沖縄に行き、貨物船に積んである震洋隊3隊を沖縄に揚陸してくれ。 君の船団の前方には今海防隊1隊が護衛する船団が沖縄に向かっている。」

 という要旨のことであった。

 そして他の幕僚は皆忙し気に盛んに電話をかけたり、机の上の起案作業に没頭していて、誰一人として平然としている者は見当たらなかった。 私はそこに 「緊迫した戦局」 を感じ取った。

 新たに「朝顔」と同行する第102号哨戒艇は、18年6月哨戒艇籍に入れられた旧米駆逐艦のスチュワート号であった。

PB-102_ex_Stewart_S20_s.jpg
( 昭和20年3月当時の第102号哨戒艇  月刊誌『世界の艦船』より )

PB-102_ex_Stewart_draw_S20_s.jpg
( 終戦時の第102号哨戒艇 側面図  第2復員局史料(1947年)より )

 艦型が見慣れないものであったが、慣れてしまえば同じく艦尾に軍艦旗を翻しているし、艇長以下我々と少しも違わないれっきとした海軍軍人が乗組んでいるのであるから、やはり貴重な1隻の護衛兵力であるが、外から見えない艦内の構造、艤装、兵装などの違いは、さぞ乗員に人知れぬ苦労をなめさせていることだろうと想像された。

 また、貨物船は約1,000ないし2,000トンぐらいの小型船で、露天甲板にまで山のように震洋艇が搭載されていて、私達はこの可愛らしい自動車エンジンのボートを「丸四艇」と呼んでいた。

 各隊長は中尉だったようで短い海軍生活にもかかわらず、態度動作が立派で、私達は心から隊長達を頼もしく思い、彼等の揚陸後の活躍を祈らずにはおれなかった。
(続く)

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