2009年05月05日

聖市夜話(第34話) 沖縄突入中止・済州島配備(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 20年3月17日、門司においてヒ99船団の編成を解いた「朝顔」に、「待ってました」 とばかりに与えられた次の任務は、「朝顔」1隻で「第2高砂丸」を護衛し鉢小島行きの行動であって、17日その日に門司を出て、18日鉢小島に着いている。

 これは私の第41回目の護衛行動として戦時日誌に記録されているが、私の記憶には鉢小島がどこであったかも残っていない。

 あるいは佐世保港内だったかなーという薄い記憶もあるが、記憶に残ってもいないということは、当時全く機械的に行動した証拠で、この頃、この行動に限らず一般的にみて私は 「乾坤一擲の気概で戦に当たる陸軍さんに比べ、海軍は余りにも機械的、事務的に作戦を処理し過ぎるのではないか」 と反省していた。

 あるいは、海軍の中でも私のような車曳きクラスの艦長だけが、余りの忙しさに負けてついつい 「またか!」 とばかりに機械的、事務的に作戦行動を続けていたのかもしれなかった。

 またこの反省に対する反論として、

 「機動力少ない兵力は戦の回数も少なく、機動力強い兵力ほど戦の回数も多い。 したがって多く戦う兵力は多少機械的、事務的になってもやむを得ない。 一つ一つに余りに深刻に考えていたら、こちらが持たぬ。」

という説も出てくるのであったが、例え、いかに軽微な行動でも、およそそれが対敵行動に属するものであるならば、油断すればたちまち逆に食われる危険性を抱いているのであって、平易な護衛行動でさえも物見遊山の行動とは全く趣を異にしていた。

 したがってどんな行動に対してもよく事前に研究し、実施に当たっては細心の注意が必要であることは頭では分かっていたが、忙しいとついこれが実行できなかった。

 あるいは帝国海軍の伝統で、常時艦橋ということが指揮官を酷使し過ぎ、対敵行動に免疫性ができてしまって、つい機械的、事務的に行動してしまうのではなかろうか、などとも考えられるのであった。

 こんな自問自答を繰り返している某日、私は艦橋でハタと膝をたたいて、「なるほど、それで昔から耳にたこができるように、必勝の信念と言われたのかなー」 と悟りを開いたような気にもなってみた。

 が、しかし機械的、事務的になることの防止策としては、私のような凡人にとって 「必勝の信念」 というお題目だけでは、効能が余り長続きしないように思った。

 何かほかに名案はないか、対策はないか、例えば作戦行動の前には必ず作戦会議を行うこととし、席上指揮官の情勢判断と決心を述べることを義務付け、これに上級司令部の幕僚が必ず立会うことにするのも一法かなー、などと考えてもみた。

 またこの頃になって私は、私が戦死した後誰が出入港をしてくれるかという心配を問題にした。 そして狙いを付けたのが、昨年5月大尉になった先任将校と今年3月大尉になった航海長であった。

 私は門司出入港に当たって 「想定、艦長戦死、今日は先任将校やれ」 などといって、極力先任将校、航海長などに横付け、浮標繋留など実習してもらったが、この頃は、門司には余りよく出入するため慣れてしまってずうずうしくなり、潮流の最強時だけは潮待ちをして敬遠したが、流速中位以下のときには平気で出入を繰り返していた。
(続く)
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