2009年03月02日

聖市夜話(第26話) 三亜の白砂(その5)

著 : 森 栄(海兵63期)

 天気図を見せてもらったが別に低気圧の来襲もなさそうである。 幕僚たちと語るうち、少し椰子の葉の揺らぎが強くなってきた。

 「この風は大したことないでしょう。 今晩泊ってゆきましょうや。」

 という私に対して、吉田艦長は 「惜しいけれど、念のため帰って寝るか」 と言った。

 私は素直に兄貴分の言に従って司令部を出て、焼け付くような三亜海岸の真っ白い砂を踏みながら桟橋に出て、内火艇に乗って沖に「呉竹」と仲良く並んで錨泊している「朝顔」に帰ったが、案の定船体は焼け付いていて手も付けられないくらいで、またまた陸上の司令部の涼しさが思い出されたが、風さえ入れれば少しは凌げそうな風が吹いていたのは一抹の救いであった。

 夕刻に近づくに従い、風は少しずつ強くなり、波頭の白さが段々大きくなってきて暑い艦内の昼寝にも好都合になってきたが、私はどうもこの風が気懸かりでならなかった。

 日没前黒田吉兵衛機関長は、風ばかり見ている私に言った。

 「缶点火して主機械を用意しましょうか。」 私は

 「もうしばらく様子を見よう。 折角機関科員も休息しているからね。 こんな良い機会はメッタにないヨ。 また出港したらコキ使われるに決まっているからネー」

 と答えた。

 確かに6月9日舞鶴を出てから7月8日三亜に着くまでの1か月間に、ゆっくり停泊させてもらったのは、6月20日の高雄と7月2日のマニラだけであった。 私にとっては乗員、特に機関科員をゆっくり休息させるための1日が貴重であった。

 しかも、もう一つ悪いことには、私は72期の運用術教官として教科書の同じところを4回も講義し、ほとんど全文を暗記していたし、また連続の艦隊勤務で、「風速何mになったら錨鎖を伸ばす」 式のGFの一般要領も丸暗記していて、こと荒天措置については一通り分かっているという自信(高慢)があった。

 そして更におめでたいことには、舞鶴工廠長に一札書けと啖呵を切った錨鎖肉滅りの件も、僅か1か月ぐらいしかならないのにスッカリ忘れていた。

 風速は次に10mを突破し、気圧は急速に下がり出したので私は初めて 「缶至急点火、主機械用意」 を令した。

 次いで風速13mに達したので錨鎖を一杯(約10節と記憶)に伸ばした。 もうこうなると 「涼しくて休息に好適」 どころでなく、「この低圧部どこまで下がるか」 と、多少気味が悪くなってきた。

 全く午後司令部で椰子の葉が揺らぐのを見たのがうそのような思いであったし、また万一吉田先輩の言がなくてあの司令部の涼しい部屋にでも昼寝していたら、もはや内火艇で帰艦することも不可能で、天下に恥をさらす危い瀬戸際であった。

 気圧は止まったが、風速は衰えない。 「呉竹」の煙突からもほとんど「朝顔」と同時に煙が出て缶至急点火が行われたことが見られた。 低圧部中心が通過したのか、風向乱れ錨鎖の振れが強くなった。

 突如老朽し尽くしていた錨鎖は、私のそれまでの経験ではさ程強くもない風速なのに、アッ気なく切断し、「朝顔」の船体は 「アレヨ、アレヨ」 という間に砂浜に平行に乗し上げてしまった。
(続く)

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