2009年02月13日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その8)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私は年も若く、経験も浅く、到底かつて仕えた飛健さんのような名駆逐艦長に一足跳びになれそうな可能性はなかった。 それでも最小限、次のことだけは全うしたいと思った。

 その第一は、200名の乗員を殺してたまるか、敵に対しては常に先制を取り、絶対に隙を見せてはならぬ。 また、どんな困難な任務でも絶対に腰を折るまい。 神が「永眠」させてくれるまで最愛の部下と共に戦う。

 その第二は、200名の部下には色々な希望があるであろう。 ゆえに私は最も高い目標を持たねばならない。 どうせ神が私を見るならば80点でなくて30点であっても構わない。 しかし部下の誰よりも高い目標を目指して、至誠至純、より一歩でも神に近づくように心を持って行きたい。

 それは10メートル飛込みのとき、「直下の水面を見るな、遥かなる水平線を見よ」 と教えられたことも似通った心境であった。 直下の水面を見る部下も若干いるであろう。 50メートル100メートル先を見る部下もいるであろう。 しかし艦長たる者は、誰よりも遠い所を見つめなければならない。 それだと、直下を見る部下、100メートル先を見る部下も、皆ついてきてくれそうであった。

 また、神に近づく第一歩は、まず私利私欲を念頭から去ることに始まると思った。 そして生命が惜しいということは、私利私欲の最初に出てくる最も強い本能であったが、これは既に戦没した勇士たちを思い、また「後に続く者」たちに対する強い信頼によって、霊魂の不滅を確信し、「あの世でともに一杯やろう」 という心境であった。

 この心境が取れないと、短時間を利用して熟睡することもできないし、任務そのものが不平不満の種ばかりということになる。

 戦後、自分は基地又は後方にあり、最愛の部下を次々に死地に見送らねばならなかった幾多の提督たちの深い苦悩を本や映画で知ったが、その点小艦の艦長は常に部下全員と共にあったので、気は大いに楽であった。

 その第3は、部下の前で喜怒哀楽を示すまいと思ったことである。

 本当はプラス面である善と楽の面ぐらいは出しても良かったのであろうが、老練な名駆逐艦長のように、器用にプラス面だけを出すということは、未熟な私には到底不可能であって、喜と楽を出せばたちまち感情が高まり、すぐマイナス面の慾と哀が出てしまうので、結局私にとっては、なるべく感情を大きく動揺させないことに努力した。

 戦後14年たって、「朝顔」の旧乗員から戦時回想を集めたとき、某先任伍長の回想に「笑わなかった艦長」という印象が書かれていた。

 未熟なるがゆえに、マイナス面を出して士気を落とすことを恐れる余り、プラス面すらも出し得なかった当時の私の姿を見せ付けられたようで恥ずかしく思われたが、そう言えば戦後本籍地に帰村就農し、秋の名月を縁先に眺め、

 「国敗れて山河あり、今や私は艦長でない、家族5名の家長であるに過ぎない。 今や存分に泣いても良い、笑っても良い。」

 とは思ったものの、私のあごは久しく大きく開くことをしなかったため、人並に大口を開けて笑うこともできそうになかったという生々しい記憶がある。

 また、昭和12年駆逐艦「疾風」にては、艦長の飛健さんが毎朝謹んで士官室の黒板に、愛情あふるる達筆で明治大帝の御製を写していた。

 当時2年目少尉の若造の私は、艦長の字がきれいだなーと感心したぐらいであったが、それから数年たって自ら艦艇長となり、指揮官としての反省の一方法が、御製の謹写となり、一歩でも大御心に近づかんとする崇高な姿であったことに、ようやく気が付いたのであった。

 名鑑長は言わず語らず身をもって私達後進にその道を教えた。 「私利私欲の念を払って任務に忠実なること」 という目標は、帝国海軍の美しい伝統の一つであった。 戦後30年色々な仕事についたが、私の心が最も神に接近したときは、「雁」と「朝顔」の時代であったと断言することができる。

(原注) 私に反対した幹部1名がいたことは、他の各護衛艦と比べ、全く特異な現象であって、これが護衛艦の平均した状態であったとは思われないので、一言断っておく。


(第23話終)

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