2009年02月07日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その2)

著 : 森 栄(海兵63期)

 19日一日休ませてもらって、20日高雄から門司行きのタモ17船団24隻を運航指揮官6班、「蓮」、8号海防艦、「第3拓南丸」と共に護衛し、1100高雄を出発した。

 そして途中無事九州西岸に辿り着き、26日にはまたも「朝顔」の見張りの名人服部2曹は、福江島付近海面において船団前方に浮流機雷1個を発見し、これを「朝顔」は銃撃処分して船団の危険を未然に防ぐことができたが、翌27日0630「朝顔」は船団と佐世保沖にて分離し同日1530単独で佐世保に入港した。

 佐世保では4月30日から5月3日まで入渠しているが、この短期の入渠の目的が何だったか記憶がない。 恐らく水測兵器の追加工事であったものを、母港舞鶴まで帰らせると、船団発着地の門司との往復に時間を余計に費やすので、もっと近い佐世保にされたものかと回想される。 なおこの期間に上甲板上には25ミリ機銃連装3基と爆雷投射機2基とが増設された。

 この頃はそれ程によく護衛艦は使われたもので、母港舞鶴ではなくて佐世保工事となったことは乗員をちょっとガッカリさせたが、昨年12月下旬母港を出てきてから、まだわずかに4か月しか経ってないのに、余り大っぴらに不満を言える筋合でもなかった。

 事実第一線の局地で哨戒、掃討、護衛をやっている対潜艦艇は、例えば水雷艇「雁」のように開戦時進出したっきりで遂に終戦間際に南海に散り、遂に一度も母港の地を踏まなかったものも、少なくなかったのであった。

 それに比べれば、イ36の艦艇は、幾ら忙しく使われても時々内地に帰れることで十分の補いがついていた。

 ここで試みに、佐世保に着くまでの約1か月余りの行動をみると、3月22日から4月27日までの38日間で、停泊日数わずかに3日、航海日数35日であった。

 この停泊日数というのは、1日中全く動かない日数であるが、この停泊日数が少ないことが一番こたえたのは、恐らく艦長と機関科であったであろう。

 行動中常時艦橋にあることを帝国海軍の重要な伝統としていた艦長は、食事と便所に行く時以外は艦橋から下りることなく、明らかに敵が眼前にいる時には、食事も艦橋に持ってきて取ったもので、したがって便所に入っているときだけが、腰の脇差すら抜くこともできない一番哀れな時間であった。

 また機関科は、老朽艦になればなる程、寸暇をさいて早目に解放検査し応急措置をやる必要があったが、停泊日数が少ないということは、いかに有能な機関長でも解放して検査のできる時間を与えられないということに等しく、機関長以下がその使命を全うすることを極めて困難にしていた。

 私は当時年齢29歳4か月であって、それまでは若さのお陰で数日間の行動を終わって入港しても、翌日の出港前まで一晩グッスリ眠れれば大抵の疲労を回復することができたが、「朝顔」着任から半年目のこの頃、少しずつ体力の限界に近づいてゆくような感じがしてきた。

 したがって艦橋にあっても、なるべく窓際に立つ時間を少なくし、なるべく折椅子に腰掛け、大事な海面では神経を緊張し、平易な海面では神経を休ませ、できれば折椅子に腰掛けたままで上手に眠ることに努めた。

 この哀れな艦長の姿をそばにみる当直将校以下の当直員は、敵発見以外なるべく高い声を出さないように注意して艦長の休息を守ってくれたが、これら当直将校を初めとする当直員にしてみても、いつ雷撃してくるか分からぬ危険さの中の4時間勤務は、責任重く疲労激しく、また当直が終わって折角居住区で安眠していても、総員配置のブザーで夢を破られることが多く、しかも波浪による駆逐艦の動揺は何の遠慮もなく私たちの生活に来襲し続けたのであった。
(続く)

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