2009年02月06日

『聖市夜話』(第23話) 我に一夜を(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 「戦略と戦術の戦い」 をしながら南シナ海を突破してきたユタ04船団が、無事高雄に入港したのは19年4月15日、日没頃の1830であった。

 イ36司令部の命令によれば、「朝顔」は翌16日早朝高雄発、バシー海峡西方を通って高雄に着く船団の護衛に行く予定であったから、主計長としては、入港後なるべく早く生糧品を補給しなければならなかった。

 元来「朝顔」は貯糧品については全乗員約190名の1か月分を搭載できたが、生糧品については野菜は上甲板に露天積だったので約1週間分程度、肉魚については上甲板上に備え付けの氷冷蔵庫だけであって、その中の氷が南方行動ではせいぜい3〜4日しか持てなかったので、3〜4日分というところが限度であった。

 そして海南島南方海面の蓮子鯛は有名であったが、海南島を出て少し蓮子鯛が臭くなると、天ぷらになって食卓に姿を現し、これを見た私たちは、蓮子鯛の痛みかけたプーンとする臭さに 「ああ三亜を出てから3日目か」 とよく気が付いたものであった。 また同地は補給に苦しい所で、何かの蔓とか、芋と豚肉と蓮子鯛しかなくて、三亜から3日経ったら缶詰で後を補う状態であった。

 ところで、3月着任したばかりの新進気鋭の神林晶主計長 (海経33期、当時少尉、9月中尉) は、入港するや直ちに短艇を下ろし、部下を連れて夕闇迫る中を高雄軍需部岸壁に行き、生糧品の補給を請求したところ、係員は既に退庁後で、当直員では話にならず、それなら係員の自宅まで迎えに行ってくれと頼んだがこれも断られてしまった。

 日ごろ温厚な神林主計長も大いに怒り、短艇を漕いで「朝顔」に引き返し、今度は薪割(斧)を持って行って倉庫の錠前を壊して生糧品を補給しようと考え、まだ在艦中であった私に話した。

 私も事の次第を聞いて主計長と同様に憤慨してしまった。

 「最後の責任は俺がとる。 倉庫をブチ壊して生糧品を取ってこい。」

 と言って主計長を激励した。

 艦長の命を受けた主計長は、勇躍薪割片手に再び短艇を漕いで軍需部に行ったところ、主計長の強い気迫に恐れをなしたのか、今度は当直員も素直に倉庫を開けてくれた。

 この薪割事件以後、同軍需部は「朝顔」入港前に生糧品を岸壁に出しておいてくれ、入港直後に搭載できるように進歩したのであるが、若き主計長の顔とともに忘れることのできない、私たちの若気の至りの思い出である。 (同主計長は戦後海上自衛隊に在職している。)

 さてその翌日は、0930高雄発、洋上にてサタ17船団23隻(?)(13班、「初雁」、海8、駆潜41、「長寿山九」護衛) に17日合同し、バシー海峡西方の護衛を強化した後、洋上にて分離して、18日1900無事単独高雄に着いた。

(原注) 船団隻数の23隻は推定、あるいは13隻。

(続く)

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