2009年02月03日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その4)

著 : 森 栄(海兵63期)

 私達もコーヒーを飲みながら、余り小さい喧嘩はしないで、もっと大きな所で敵の首をギューッと絞めたい。

 幸いにして、B24の発見報告に呼応して船団前路に待機していた敵潜も我が船団の数回にわたる大角度変針で振り落とされたのか、あるいはそんな潜水艦が元々近所に配備されていなかったのか、どちらかも分からなかったが、このユタ04船団は15日無事高雄に着いた。 イ36司令部では、また「朝顔」船団被害無しというので、信頼を一段と高めたようであった。

 この頃の某日、イ36司令官に行動終了報告を終えて退室しようとした私は、堀江義一郎参謀長(大佐)(43期)に呼び止められた。 参謀長いわく、

 「恥ずかしいことだが、当司令部は船団護衛の専門であるのにかかわらず、船団護衛の経験ある参謀が一人もいない。 目下イ36部隊の戦策を立案中で、ここに第1案ができているが、君がこれを見て気の付いたことを加筆してくれないか。」

 と言う。 私は若輩の身で、身に余る光栄と感激したが、何分にもゆっくり机につく暇がない。 行動中艦橋で書くより他に暇はないので、その皆答えたところ、参謀長はそれで良いから頼むとのことであった。

 私は、敵潜1隻を更に撃沈するかのような気迫で、この特命作業に取り掛かった。

 見れば第一案は、既に立派に纏まっている。 従来の帝国海軍伝統の教範式の名文であった。 しかし、それは机の上で静かに書かれた名文であって、荒れ狂う風浪の音なく、何日も入浴しない乗員の汗臭さもなく、何日も安眠できない神経の疲れもなく、心臓も止まらんばかりの恐怖もなく、肉片乱れ散る血液の生臭さも見受けられなかった。

 「よおし!」とばかりに、借越にも私は冒頭から、ほとんど全文を書き直してしまった。 この艦橋における作業を終わって、次の高雄入港時参謀長に提出した。

 それから約2か月経って19年7月、イ36戦策が活字になって「朝顔」にも配布されたが、その内容はほとんど私に渡された第一案どおりのものであって、私の私案は全く採用されていなかった。

 推察するに、私の案は余りにも具体的で血生臭さ過ぎ、無事泰平な70年の帝国海軍の伝統のうちに育てられた司令部幹部の目には、余りにも独断的な表現、戦策らしからぬ表現、と映ったのではないかと思われる。

 が、私としては、それまでの約20回の護衛の体験のエキスを絞り出したものであって、「こういう状況では何に注意せよ」、「こう困ったらこんな手がある」、「こんな海面ではどんな所が臭い」、等々のことを細大漏らさず表現した積りであって、いずれも具体的で、この要領で更に20年5月まで20数回の護衛を続けてみても、大過のないものであった。

 しかし惜しいことに、私はこの私案の写しを取らなかった。 後年海上自衛隊に奉職した時、最も悔まれた事項の一つであったが、今もう一度書いて見よと言われても、到底書けるものではない。

 しかし私は、この経験からみて今後の海軍においては、「戦策は艦橋にて起案すべし」 ということをお勧めしたい。 具体性に溢れた戦勝の要訣こそ戦策であって、またそれは時代によって変わってゆくものである。

 何年経っても通用するような戦策は、余りにも漠然過ぎて新任艦長の明日の戦闘に役立つ生々しい指針たることはできない。 当時のイ36司令部は、すぐ下に各護衛艦を持っていたのであるから、このような司令部こそ最も具体性の強い戦策の必要があるものと思われた。
(続く)

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