2009年01月29日

『聖市夜話』(第22話) 海南島の鉄船団(その1)

著 : 森 栄(海兵63期)

 パラオ任務を果たして高雄に帰った「朝顔」は、ここで珍しく中2日の休養をさせてもらった。

 イ36部隊の護衛艦にとって、行動の中心となる高雄は第一線にある母港のような存在であった。 狭い湾口を出るとすぐ外洋の強いうねりにぶっからねばならなかったが、一歩湾口から中に入れば波風もなく、安心して休めた。

takao_1945_s.jpg
(高雄港及び市街  1945年の米軍地図から
 桟橋は左下、現在の台湾海軍の基地のある所)

 イ36司令部は市内の繁華街を通り終わって、静かな町外れのような所にあったが、司令部が陸上がりして、こんな遠い所にあることはちょっと不思議であった。 高い空中線のいる無線電信の都合でもあったか?

 こんな所にあったので、私たち艦長クラスでさえも、迎えの自動車でもないと簡単に行けなかったから・・・・。 まして艦長以外の士官たちは、「司令部には艦長が一人で行くもの」とぐらいに考えていたであろう。

 横付岸壁の近くには軍需部があって、これは近くて便利であったから艦長以外の士官、下士官たちはここで大いにサービスして貰っていた。 もしもイ36司令部が、この軍需部続きの地にでもあったら、司令部の幕僚たちはもっと生々しい乗員の心にも触れることができたかも知れないが、あるいは反対に 「もうこれ以上護衛艦の苦しさを聞かされてはたまらない」 という状況だったかも知れない。

 私は船団行動を終わって入港すると、すぐ迎えの自動車で町を通り抜けて司令部に行き、まず司令官中島寅彦中将に簡単な任務報告をやり、退室して幕僚室の先任参謀魚住中佐(52期)の机の横に座り、行動中の子細を語り終わって次の護衛任務の予定を聞き、司令部から車で艦に帰り、士官室で次の行動予定を語り準備を命じ終わると、初めて背広に着換えて宿屋に直行するという順序であって、主な士官たちも私の帰艦するまでは在艦していて、艦長から次の予定を聞いて初めて安心して上陸できる仕組みであった。

 司令部では司令官も優しかったが、先任参謀は特に護衛艦側の苦労をよくねぎらってくれた。 もしこの先任参謀の職にこのような立派な先輩を得られなかったならば、護衛艦の多くは恨みを残して死んで行ったであろうし、またアレダケの活動は期待できなかったであろう。

 先任参謀の頭の中はいつも次の船団部隊編成のこと、次々にバシー海峡を通過する船団の護衛強化のこと、各船各艦の故障、人員の事故、時々起こる被害船の処置、敵潜出現情報などでいつも一杯のように見え、他の参謀に比べ余りにも過重な労度を一人で受けているのではないかとさえ想像された。

 それにもかかわらず、忙しい中に私たちの愚痴に属するようなことまでよく聞いてくれたので、同参謀が思わず 「アア困ったなー、護衛艦が足らない」 と言えば、大抵の艦長は疲れを忘れてつい進んで協力してしまう、というような状況であって、同参謀の人徳がイ36の潤滑油となっていたことは確かであった。 私自身も戦後落ち着いてから真っ先に会いたい人は、この魚住参謀(中佐)であった。

 次に私がいつも泊まる宿屋は、町の中の裏通りにあって便利で静かであった。 艦から行くと、午前であろうと午後であろうと私の姿を見ただけで風呂を用意し寝具を敷いてくれ、私は入浴して後浴衣掛けて敷布団の上にアグラをかき、ビールを飲んで食事を食べ終わると、たちまち寝てしまうことが例となっていた。

 そして私の後で艦を出て上陸してきた先任将校、主計長あたりが私の所に立ち寄った時は、私は入浴を済ませて座敷中央の寝床の上でビール、食事の最中ということが多かった。

 時々彼等は言った、「艦長まだ早いです∃、映画見に行きませんか」 私は映画を楽しむだけの気力も体力もなく、万事はまず6〜7時間ぐっすり眠ってから後のことであった。

 「皆元気がよいなー、しかし俺は眠るよ。」 という返事が多く、一緒に映画に行った記憶はない。 この入港直後の6〜7時間の睡眠が、静かに快くできることが、次の船団護衛に最も必要な重要事項の一つであって、これを可能ならしめた高雄の宿屋は一番懐かしいし、またその故に高雄は良い母港でもあった。
(続く)
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