著 : 森 栄(海兵63期)
次に両難所の中間になる大海原は、船団の航路と敵潜の航路が偶然ぶつからない限り敵潜が待機している算は少いと判断された。
敵潜は当時ハワイ又は豪州ブリスベーンから極東に来ていたので、比島東方でこれらの敵潜航路とぶつかりそうなのは、バシー海峡東方海面ぐらいであった。
そしてこの総航程は「朝顔」の燃料搭載量からみてギリギリの余裕しかなかった。 「朝顔」が単独で行動するならば燃料の心配はなかったが、6〜7ノットという船団であるならばこの船団の速力で総航程を割らねばならない。
したがって私は、最後の難所であるバシー海峡において敵の攻撃を受けても、何がしかの反撃ができるように燃料を残しておかなければならなかったので、バシー海峡までの中間海面では極力燃料を節約しなければならないものと判断した。
そしてパラオ出港の翌日25日の0645に、果たせるかな敵潜望鏡らしいものを発見したので、「朝顔」は船団誘導を僚艦「第5昭和丸」に命じて船団から分離し、現場の対潜掃討を開始したが、更に敵情を得なかったので、燃料の心配もあり1000には掃討を止め船団を追及した。
(原注) 敵潜望鏡発見、掃討の記事も戦時日誌によるが、記憶は残っていない。
こうして第1の難所であるパラオ北方海面は無事通過、船団は広い大海原を北へ北へと進んだ。
私はそれまで東シナ海・南シナ海というような狭い箱庭ばかりを行動していたが、この高雄とパラオの間の行動は途中利用できる陸地もなく、初めての自由潤達な波静かな見渡す限りの大海原であった。
狭い箱庭では地形・地物が利用できたが、この大海原では果たしてどうであろうか、色々考えた揚げ句次のような結論となった。
地形・地物の利用は、地形地物に慣れない新米の敵潜にとっては、ここは日本側の縄張りの地形地物だと思ってある程度の脅威となるかもしれないが、何回も配備されで慣れてしまった敵潜にとっては、地形地物の存在そのものはむしろ彼らにとっても「利用すべき物」であって、我も敵も利用し得る点において差はない。
しかし、我が縄張り海面の地形地物の要所要所に、我が方の適切な防備兵力、設備が配せられた場合にのみ、この地形地物は我が方の利用度を増し、敵側の利用度を封殺するものである。
私達は、ともすれば地形地物が存在するというだけで、すぐ安心してしまう癖があったが、我が方の防備兵力の存在こそ大事である。 と同時に敵潜側では、どんな利用の仕方をするであろうかをよく研究しなければならない。
こんなことを思いながら、地形地物のない比島東方海域をバシー海峡に向けて、長閑な航海を続けた。パラオを出港して丁度一週間目の31日、最後の難所であるバシー海峡に差し掛かった。
私は繰り返し胸ポケットの計算尺を使って燃料の計算をして、わずかに残る余力を活用して、バシー海峡の敵潜の攻撃を事前に攪乱して、船団だけは最も安全と思われる海面をスポリと通してやろうと考えた。
丁度その時、パラオ大空襲の電報に接した。 約1か月前トラック空襲に成功した敵機動部隊の艦載機群は、パラオを空襲し、在泊艦船を総なめにしつつあった。
陸上もさぞ被害を被ったことであろう、彼女たちの夫も、戦死した者もいるだろうと思いながら、船団内の便乗船を眺めたが、まだパラオ大空襲を知らなさそうな便乗者達は、台湾南端鵞らん鼻岬の奇岩怪石をのんびりと眺めているようであった。 彼女たちも今日高雄に上陸して、パラオ大空襲を聞いたならば、さぞ驚いて心配するであろう。
それから間もなく高雄に入港した。 一隻も沈めず、一人も衷わず行動を終わることは、それまで毎度のことではあったが、このときは特別に肩の荷が下りてホッとした。 パラオ一週間の差で助かる。 この第2回目の幸運も神が定めた宿命としか思えないものであった。
(第21話終)