2008年12月29日

『聖市夜話』(第17話) 「天津風」の救難(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 曳航速力は約4ノット余り出たようであった。

 19号駆潜艇には適宜前方両側を巡回しながら警戒してもらったが、敵潜発見の場合曳索を切断すると同時に、咄嗟に「朝顔」の採るべき回頭側に関しては、

   (1) 雷跡を見る場合には雷跡を回避するように回頭し、
   (2) 雷跡のない場合には駆潜艇の占位しない側に回頭する

ということも考えられた。

 曳航して行く内、25日1530頃「朝顔」は怪しい反響音をつかみ、曳索を切断したが、虚探知であることが分かり再び曳索を取って曳航中、再度2330頃怪しい反響で「朝顔」曳索を切断したが、この時は「天津風」乗員も度々の曳索揚収作業で極度に疲労し、その場収は翌26日の0200までかかった。

 このように曳艦も対潜顧慮のため必死であったが、被曳艦も曳索揚収に必死であった。

 26日0200曳索を揚収し終ったが、「天津風」側の疲労も烈しく、夜間でもあったので曳索を取らず、「天津風」は漂泊し、両艦は付近を警戒し日出を待ち、0730から今度は「天津風」の鋼索を繰り出し曳索として曳航を開始した。

 遭難当時から荒れていた海上も漸く静まりかえってき、「天津風」乗員も二度と8インチ麻索を揚収しないですむようになった。

 1500頃「天津風」艦上では肉眼で仏印の陸地が見え出し、「助かったゾ」という歓喜が艦内に溢れたが、一方この付近の海面に慣れている「朝顔」と19号駆潜艇では、いよいよ「船団の墓場」に来たとて最後の警戒を強化したのであった。

 仏印の沿岸を右に見ながら西航すること足かけ3日にして、29日1530頃フランスの大型曳船1隻が波をけたてて迎えにきてくれ、曳索を渡した。 次いで1830頃同型の曳船が「天津風」に合同し2隻で曳航し、2200頃サンジャック着、「天津風」乗員は13日振りの安眠をなした。

 以上で曳航の総航程約490海里、「朝顔」は翌30日1200サンジャック発メコン河を上って1630サイゴンに着いたが、一方3隻のえい船(1隻縦、2隻横曳き)に曳かれた「天津風」は1500出発2200サイゴンに着いている。

 サイゴンでは11特根司令官より救難成功を祝して、司令部秘蔵の既にその頃残り少なくなっていた仏国産三ツ星印のコニャック一箱を「朝顔」に頂いたが、「朝顔」ではこれを少量ずつ全乗員に分けて祝盃を挙げた。

 そのほか、貴重な中6日間の休養までさせてもらったので、若さに溢れる「朝顔」の全乗員は早速疲労を回復してまた元気になった。

(原注1) 「天津風」を雷撃した敵潜はなぜ第二撃を加えなかったか。 雷跡1本ということから魚雷を既に打ち尽くしていたのではないかとも想像されるが、それならそれで、潜望鏡を上げてよく見て、後部砲の死角より接近して砲撃する手段も残されていたのではなかろうか。
  また魚雷が残っていたならば、曳航艦「朝顔」が来着し曳航開始するのを待って、一挙に2隻を魚雷で轟沈させることもできたであろう。
  この点、水雷艇「雁」を斃した敵潜は「より強敵であった」と思われる。 苟もしくも戦闘に臨んだならば、攻撃に徹底する必要がある。 小成に安じて第一撃だけで早々にして引き揚げてしまってはいけない。


(原注2) 第二復員局の功績便覧によれば、サイゴンにて応急修理の後、19年11月8日「永福丸」に曳航されてサイゴン発、15日昭南着、同地にて修理し艦首を着け、20年3月9日ヒ88T船団の護衛艦の1隻として内地に向け昭南を出発したが、4月6日廈門沖で敵機32機と交戦して被害を受け、廈門湾内に擱座した。
  上記の間、20年2月上旬から4月上旬までの最後の艦長は森田友華氏(68期,海自在隊、49.10.1退職)であったが、昭南から内地向け困難な長い道中を克服しつつ北上に成功しながら、アト一息というところで擱座に至り、森田艦長以下の無念さについては同情に堪えない。
  同艦擱座の頃私は同じ「朝顔」で沖縄行きが作戦中止となり、「震洋隊」済州島配備行動に転換中であったが、「天津風」の救難からそれまでの期間は3〜4年経っているように感じられたものである。


(原注3 ) 船団部隊指揮について
  この「天津風」の例のように、遠距離に、とくに日没頃敵潜を見て、「ソレ行け」と護衛艦1隻を急行させることについては、その後も同じような場面に度々遭遇したが、これらの体験を通じての所見では、このような発令は算盤に合わない結果となることが多い。 以後実例について機を見てご参考に供するつもりであるので一言触れておく。


(第17話終)
この記事へのコメント
今日、久し繰りに父86才を訪問しました。父は海軍の一式陸攻の搭乗員でした。潜水艦攻撃をうけ漂流中の天津風を捜索せよとの命令で、3機で丸二日捜索飛行を続け、雲が低く高度100m以下の超低空で飛びやっと後ろ半分で漂流中の天津風を発見したとの話を生々しく話してくれました。その情報で天津風が救助に至ったとのことでした。司令官から感謝状をもらったそうです。
父の話で興味を持ち、この記事を発見しましたので コメントさせていただきました。 2009-6-13
Posted by 矢崎康幸 at 2009年06月13日 21:36
矢崎康幸さん

貴重なお話をありがとうございます。 一つの話に色々な人が関係し、それぞれの史実を伺えるのも嬉しいことで、本回想録公開の甲斐があるというものです。

ブログのオショロコマも拝見いたしました。 私は渓流釣りはやりませんが、大変に美しく魅力にあふれる魚ですね。

(出張先の舞鶴より)
Posted by 桜と錨 at 2009年06月15日 21:32
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