『 海面防備(対潜・対機雷)史料 』
同 別冊第一 『 海面防備(対潜・対機雷)関係者回想所見集 』
同 別冊第二 『 大東亜戦争における海上護衛戦資料 』



元々は、戦史叢書編纂のために昭和34年頃から編纂官が旧海軍の関係者から集めたものですが、自衛隊部内の教育・研究の参考とするため、昭和47年に防衛研修所戦史室(当時)がこれらを取り纏めて3分冊の冊子として印刷・配布したものです。
したがって、当然ながら一般には配布されませんでしたし、また現在となっては部内でももうほとんど残されていないものです。
しかしながら、旧海軍の海面防備及び海上護衛についての研究上大変貴重なものであり、特に後者については、戦史叢書「海上護衛戦」を補完・補足するものして必須ともいえる内容でしょう。
この方面に興味のある方がおられましたら、もし機会がありましたら是非ともご一読・ご入手されることをお薦めします。
翌朝横須賀入港の際海軍の艦艇が水路を先導・・・ラジオで開戦が報じられました。
このことに関し個人で情報収集中ですが今日まで真相は究明に至りません。
通常SOSをキャッチした近在の海岸局や付近船舶が救助のための交信が殺到するのですが、不思議なことに海岸局等から反応がありませんでした。独自の調査で判明したことは、当時最寄鎮守府から各海岸曲に通信将校派遣とのことで、即通信封鎖されたものと解されます。
他方、当時海軍艦艇が機雷敷設作業中での突発事故で、同艦艇から、即無線封鎖されたため後続情報が絶たれたものかとも推察されます。
そこで『 海面防備(対潜・対機雷)史料 』で当時の機雷敷設作業状況などに関心がありますがご助言の程お願いします。
防禦海面内での電波輻射は12月6日付「横須賀鎮守府防禦海面船舶航行取締規則」により禁止されておりますが、緊急通信までこれに該当するかどうかは不明です。 あるいは開戦に伴う方位測定等を含む待ち受け強化のための措置かとも考えられますが・・・・
『海面防備(対潜・対機雷史料』別冊第1に開戦時の横須賀防備隊機雷長であった林幸市大佐の回想が収録されていますが、開戦前後の業務作業では“事故等なく無事に”とされ、当該触雷等に関する記載はありません。
ただ、日時は不明ですが、静岡からの小型商船が航路を誤って危険界面に進入し、防潜網を推進器に巻き付けて航行不能になったことが紹介されています。 ご存じのとおり、防潜網には機雷が取り付けられていますので、まさに危機一髪かと。
夜間は電波の伝播が伸びるので米軍ガム局でもキャッチ可で、開戦日秘匿がら八方極秘扱いかと推察されます。また、何かありましたらご教示願います。
祖父の過去の功績をはじめて知りました。
うれしく思います。
本ブログでのことがお役に立てたのでしたら光栄なことです。 それにしても立派な御祖父様をお持ちでね。
船名がわかれば例のSOS事案も解明できると思いますのでよろしくお願いいたします。
記
「日時は不明ですが、静岡からの小型商船が航路を誤って危険界面に進入し、防潜網を推進器に巻き付けて航行不能になったことが紹介されています」
残念ながら私は商船関係は専門外ですので・・・・ご来訪の方で、ご支援・ご協力可能な方がおられましたらよろしくお願いいたします。
かねて情報収集中の開戦前夜、浦賀水道で触雷=SOS案件がやっと解明されましたのでお知らせいたします。
情報提供者:五十嵐温彦氏(戦没船事績調査研究家)
出展;横須賀鎮守府戦時日誌
横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長あて通信文
船名 共同丸(C油槽船 船主 鍵冨正作)
該船はS16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3,5浬に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。
補足情報
この共同丸はS19年10月25日スルー海で昭豊丸が米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に驚愕するとともに、往時を彷彿させられる・・・とにかく共同丸に移乗・・・すぐ入浴、同時に衣類を水洗いして、私は無銭局長室で休息させていただいた恩義が去来するばかりである。
関連UEB;http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm
なお、共同丸はその後マニラ経由でS20年1月6日リンガエン湾において、アメリカ第38任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し船員10名が死亡.とのことで、切に戦没者各位のご冥福を念ずる。
お知らせいただきありがとうございます。
判明して良かったですね。
私の乗船 恵昭丸は感知していませんでしたが・・・当時この海域は電波管制が布かれ、海岸局には海軍から通信士官が派遣され、一切発信禁止だったようです。