2008年12月14日

『聖市夜話』(第15話) 水雷学校より「朝顔」へ(その2)

著:森 栄(海兵63期)

 また探信儀装備(18年3月)以前は、メクラで護衛していたことを示しているが、更に聴音器を装備したのは、私の代になった18年12月のことであるから、以後ようやくツンボを脱し、対潜艦艇として一人前になった訳であった。

 そして大西艦長のさらに前の艦長は、大西艦長と同期の杉原与四郎少佐(57期)で、この先輩は私が昭和12年12月から翌年8月まで駆逐艦「疾風」の航海士兼通信士であった時の先任将校兼水雷長であって、初めて駆逐艦に乗った私に対して、イロハから優しく指導してくれた先輩であった。

 またその時、私の同期の親友一冨(清太)少尉は「朝顔」航海長であって、南支の萬山群島で両艦は近い距離で行き違ったが、一冨は私あて×コヨコシ×で信号をよこし、お互いの健康を祝った。 この時私は喜びの余りこの受信用紙を将来に保存した。 この略語は航海長より航海士へという意味であるが、その裏には、「俺(一冨)の所は旧二等で俺が航海長だが、貴様(森)の所は旧一等だから航海士でさぞ大変だろうネー」という労わりの友情も含まれていたのであるが、私の上司であった航海長山川良彦大尉(58期)は、クラス内でも飛び切り優しい人であって、私にとっては姉のようであった。 私は航海長が退艦時残して行かれた古ぼけた木の印鑑を記念として終戦後まで長く保存していた。

 このように、6年前一冨、1年前杉原少佐が勤務された「朝顔」に、今や艦長として着任したことは、大きな喜びかつ光栄であった。 そして杉原少佐および一冨の顔から連想されるのは、当時の「疾風」駆逐艦長飛田健二郎少佐(50期)から受けた数々の教えであった。

 同艦長はかつては私たちの生徒時代の水雷の教官でありかつ期の指導官でもあったが、当時「疾風」が台湾を基地に中支、南支沿岸の中国海上封鎖、廈門攻略戦などに行動する間、実地実物について教えられた点は数知れず。

 また私が恐る恐るただ一人で夜間の艦橋当直をしていると、暗闇で後から私の肩をソットたたき、「オィ!通信!おしるこを食ってこいヨ」 と合図された艦長の優しい声は忘れることができなかった。 艦長は辛党であった。 私が「ではお願いします」 といって士官室に下りて行き、艦長の分まで2人前のしるこを平げて艦橋に帰るまで、艦長は大きな体で私の代りに当直をしてくれるのが毎回のことであった。

 今や私は艦長である、飛鍵さんのような大きな愛情をもって果して全乗員を包むことができるであろうか?

(原注) 飛田大佐は開戦時「雪風」駆逐艦長であったが、また愛称「飛健」で有名な水雷屋であった。


 着任早々の私は、艦長の方針として次の標語を全乗員に示した。

    1 先制発見、先制猛攻
    2 赤誠愛護、追敵萬里

 そして標語1は兵科当直員が航海中整列する艦橋横の隔壁にペンキで書き、標語2は額に書いて機関科指揮所正面に掲げた。

 標語1は、こと敵潜に関しては何んでも敵の先を制する、発見も攻撃もすべて先手をとらなければならない、これがまた任務を果し、かつ「食うか食われるか」 の戦場で最後まで生き残る方法でもあった。 標語2は、愛情を以て我が艦を労るならば、我が艦もまた我らを守り貫いてくれるという信念に発するものであった。 そしてこれらの実例は、次々に私たちの目に耳に現われてきた。

 また「雁」において体験したように、「一度敵を廃した艦は強い」 ということを、なるべく早い時機に「朝顔」全乗員に味わせるために、爆雷戦要領を私の流儀で定め、これを「朝顔」式多数一斉爆雷戦と命名して、夜間要領も定めた。

 この要領は、要するに当時定説になっていた散布帯では加害公算が少ないから、後甲板に仮設の爆雷投下台を追加して、なるべく多数(約30個)の爆雷を一挙に投射(下)して、撃沈に至らずとも最低限出血せしめると共に、投射運動としても単艦で随時随所に実施容易なるように散布帯を連合させるというものであって、この連合は結局キの字型となった。

(原注) 当時は護衛艦の隻数も少なく、かつ2隻以上が連合訓練する暇すら与えられなかったので、2隻または3隻で連合攻撃する計画は考えるに至らなかった。


(続く)

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