著:森 栄(海兵63期)
僅か4か月間ではあったが、水校の講義は特に次の点を知る上で有効であった。
1 戦局全般の経過、戦訓
2 敵の戦法
3 敵潜、敵機の性能
特に対潜艦艇の長としては、敵潜の性能の最新の数値を知ることは、対潜制圧、攻撃、効果確認などに不可欠のものであった。
これと同時に、開戦後1年半目の頃に、戦線を離れて毎晩自宅で家族と共に安眠できる機会を与えられたことも全く幸福であって、戦線にある他の級友に対して悪いような気さえした。 しかし彼等も次々に呼び返されて私たち同様英気を養うことができるであろう。
卒業直前に次の新配置が知らされた、7名が駆逐艦長(旧一等および旧二等)で、巡洋艦水雷長が3名、そして果せるかな級友石塚は水雷学校付として残ることになった。 彼は魚雷艇隊かあるいは他の水雷関係の新戦法を担当するものと想像された。
7名の学生が配せられた旧一等(「朝凪」型)あるいは旧二等(「芙蓉」型)駆逐艦というのは、主として船団護衛または対潜掃討に従事していて、その魚雷は九三式(酸素)でなく、空気魚雷の最後から2代前の六年式を搭載していたが、これに比べて3名の学生が配せられた巡洋艦は、いずれも新鋭艦で九三魚雷を備えていたので、旧式駆逐艦でお山の大将になるのが良いか、新鋭巡洋艦で九三魚雷をブッ放せる方がよいかは、よく判らなかった。
しかし、私に回ってきた配置は、旧二等の「朝顔」駆逐艦長であった。 たとえ旧二等であろうとも、水雷屋としてのスタートから駆逐艦長ということは無上の光栄であった。

(数少ない「朝顔」の艦影 「世界の艦船」から)
勇気凛々、英気に溢れ、家族と再び水盃を交して赴任先サイゴン向け空路南下し、サイゴン河に横付した「朝顔」に着任して、前艦長大西勇次少佐(57期)から引継ぎを受けたのは、18年10月19日頃であった。
全乗員を前にして着任挨拶に壇上に立った私は、僅か1年前に「雁」に着任した時の私とは、別人のように自信に満ち、悠々として落着いていた。 また大西前艦長も「若くなったね−」とは一言も言わなかった。
前艦長は17年4月から在職し、北は鎮海から始まり南はシンガポール・マニラまでに至る船団護衛に従事すること約50回、その間18年9月18日には馬公南方で敵潜を爆雷攻撃して撃沈(略確実)の功績を挙げていた。 その間に注意すべきことは、17年12月10日に32駆逐隊が解隊して以後単独艦となったことと、18年3月26日に佐世保で探信儀を初めて装備していることである。
32駆逐隊(「朝顔」、「芙蓉」、「刈萱」)は、開戦前の16年11月20日から鎮海警備府部隊であったが、翌年4月12日から南西方面艦隊の第1海上護衛隊に入り、専ら護衛に従事していたが、3隻1隊で司令の指揮の下に行動することは漸次なくなってゆき、単艦で各方面に使われること多く、隊司令の存在が反ってマイナスになったので、実情に応じて解隊されるに至ったそうであるが、解隊以前の不具合さを大西前艦長は艦長引継ぎの際詳しく私に語った。
(原注) このほか大西艦長所見については、戦史室47年3月発行の海面防備史料別冊第2(前出)参照のこと。
(続く)
父はすでに故人となりましたが、生前父が望んでいたパラオ、台湾(高雄)の訪問を親子で果たせたことが最高の思い出になっています。父は誠実を絵に描いた様な人でした。尊敬している人は誰かと問われたら、胸を張って父ですと答える積りです。