2008年12月07日

『聖市夜話』(第14話) 戦時下の水雷学校学生(その4)

著:森 栄(海兵63期)

 ことのついでに私が水雷を志望した動機を振り返ってみよう。

 これより先き昭和14年12月から翌年10月まで、私は聯合艦隊第1戦隊の戦艦〇〇の高角砲指揮官(兼分隊長)を命ぜられた。 主力部隊の4隻のなかの1隻であり、これは砲術の道からみても光栄の配置であった。

 艦隊戦技研究会の前夜、時の副砲長〇〇少佐(もちろん既に砲術屋のバリバリになっていた人である)は、私達若き「ノーマーク」(まだ専門の道が決まっていない者)に対して、誠にご親切にも次のように話してくれたのである。

 「砲術学校教官の神様達に睨まれたら最後、鉄砲屋にはしてもらえないから、説明する時にはよく注意しなければいかんぞ。」

 ところが私は、翌日の戦技研究会で私の順番が回ってきて、先ず経過概要に始まり、次に所見の項になって、「私の任務からみて、今のような装備では敵の艦載機群が多数方向から来襲する場合には、到底これらを撃攘することはできないと思うので、少なくとも今の2倍以上の装備を望むものである」 と結んだ。

 これに対し、早速「神様」のお告げが私の頭上に下った。 「君はまず高め下げの訓練に熟達する必要がある。」 射撃指揮も碌に出来ないで生意気なことをぬかすな、と言わんばかりのご教示であった。 これが昭和15年のことである。

 「神様」達がもし私の所見を真剣に考えてくれていたならば、開戦に十分間に合ったであろうが、戦艦の対空装備が急増されたのは開戦後大分経ってからのようであった。

 私は砲術学校の神様たちの態度に失望するところもあって、また早くお山の大将になれ、しかも頭がもっと柔軟で包容力のありそうな水雷屋を志すに至ったのは、この後であった。

 砲術学校学生の音羽大尉は、62期の2人の殿下の1人であって、生徒時代私たちは朝香宮正彦王殿下と呼んだが、卒業後伏見宮博英王殿下と共に臣下に降られた方であり、私の僅か約10に数えられる海軍生活の配置の中で、2か所で同じ艦の生活を共にするという光栄に浴した思い出多き1つ上の兄貴分であり、この最後の学生時代にも、私の自宅のあった磯子海岸で獲れる車海老を是非試食して頂こうと思いながら、ついに双方共忙しくて差上げる機会を逸したことは、未だに返す返すも残念である。

 同大尉(のち少佐)は学生後太平洋第一線クエゼリン環礁の陸戦参謀に出られて玉砕され、貴き身をもって我々に範を示された。

 次の砲術学校学生川崎大尉は、私と同期同郷同中学の友で、彼は表舞台で活躍中3度の戦闘に負傷し、その都度不死身を謳われ、また帰郷の多忙時を割いては、当時印度洋にいた私の留守宅を見舞ってくれた、強くて優しい男であったが、20年4月の「大和」特攻時同艦高射長として遂に散った。

 戦後記録によれば彼は共に泳いでいた一群の生存者の方に、救助の駆逐艦を誘導するために群から離れ単身抜手を切って駆逐艦の針路の前方に行ったが、すでに大腿部に出血していた。 駆逐艦はその後変針し、群の方を収容したが、その時高射長の姿は遂に見られなかったという。 最後まで部下を救おうとして我が身を捧げた崇高な精神に、私は涙をおさえて頭を垂れるばかりである。
(第14話終)
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