著:森 栄(海兵63期)
私たち11名が水雷学校に集ったと同様に、砲術学校、航海学校、通信学校などの各術科学校にも同時機同期間それぞれの高等科学生が各戦線から集められ教育されていたが、時々これら各校の学生が今日は砲術学校、明日は水雷学校というふうに一校に集められて合同教育を受けることもあった。
砲術学校の学生も水雷学校と略同数の学生のようであったが、この中に62期の音羽(正彦、朝香宮正彦王)大尉、63期の内田(一臣)(後の海幕長)、川崎(勝己)大尉などあり、合同教育の時一緒になって開戦以来の過去を語り、今後の憂うべき戦局の前途をいかに拓くべきかを共に語り合ったが、我々若年の者としては、最も重大な戦線に進出して敵を斃して戦勝の緒を作る以外に画期的な名案とてはないようであった。
後で振り返って面白いことは、この時の砲術学校講義でなおかつ、大艦巨砲による敵主力の撃滅が堂々と講義されていたことである。
砲術学校の学生は流石に大人しく聴いていたが、私たち水雷学校の学生は 「今時何の大艦巨砲か、教官よ、第一線の現状は航空優勢でありますぞ」 と言って、床を靴で打鳴らして教官に詰め寄ったが、この砲術学校教官はいとも厳そかに次のように訓した。
「第一線の現状はよく承知している。 しかし若い諸君は、まずこの土台から理解しておかなければならない。」
私はよく当たらない大砲で、敵大型機を撃ち払うこともできなかったアンダマンおよびラングーンの口惜しさを思い起こしながら、この教官の頭の固さを国家のため悲しく思った。 また砲術学校学生談によれば、毎晩夜遅く大抵12時過ぎまで課題に追われて大変だという。 これでは平時と同じではないかと思った。
これに比べ私たちの水雷学校では、入校時の校長の方針で
「この学生たちは第一線で苦労して帰ってきて、短期間の後には再び第一線に出る者であるから、この学生期間になるべく体力を回復し英気を養えるように。 平時のように毎晩自宅で時間のかかるような課題は出すな。」
ということが教官たちに達せられていたと聞いた。
この血も涙もある水雷学校長の温情によって、この学生期間の家庭生活が最後となった者に、酒井、魚野、角野の各大尉がおり、私は遺族に代って当時の水雷学校に深く感謝したい。
酒井大尉は学生卒業(10月20日)後1か月も経たぬ11月18日敵潜と交戦して「早苗」駆逐艦長としてセレべス海に散り、その3か月後の19年2月18日には魚野大尉も敵機動部隊トラック空襲の際「追風」駆逐艦長として散り、更に4か月後の6月9日には角野大尉も「松風」駆逐艦長として父島北東にて敵潜と交戦して散った。
かくいう私も、「雁」と「朝顔」との間の貴重な4か月で体力を十分に回復できたからこそ、「朝顔」20か月の船団護衛を果し得たのであって、水雷学校長以下教官の頭の柔軟さに救われたのであった。
(続く)