著:森 栄(海兵63期)
第12特別根拠地隊司令部の所在地であったポートブレヤのあるアンダマン群島と、ズッと下がって南のスマトラ島北端のサバン島との丁度真ん中ぐらいにニコバル群島がある。
北方のアンダマン群島には、小高い山もあるしまた大樹の森林もあり、時々入港してご馳走になった司令部の風呂場は、中の角風呂も敷板も回りの小屋も全部チーク材であったばかりでなく、燃やす焚物までがチーク材であって、窓の外に枝からブラ下がっている大きなマンゴの実を眺めながら、遙かに離れた日本でチーク材の貴重なことを思い浮べるのであった。

(昭和17年頃のポートブレア)
司令部で私に一番身近い人は1年上の真下弁蔵機関参謀であって、「風呂が丁度沸いているから入って行けよ。」 とか、入浴を済まして幕僚室に帰ってくると冷蔵庫で冷してあるマンゴなどをご馳走してくれた。 このやさしい心使いは、新米のために緊張の連続であった私にとって大きな安らぎと喜びであった。
ところが南方のニコバル群島は、山らしいものも全くなく、一面平坦で所々にある雑木林のほかは全面が草で覆われた低地であった。

(ニコバル群島 1976版の地図から、ただしこの記事に出てくる場所は
北の Car Nicobar 島なのか南の Great Nicobar 島の方なのかは不明)
司令部には英国人が逃げる時残して行った猟銃と散弾があった。 私はその保管係である甲板士官に借用書を入れて銃と弾を借り、ニコバル島に入港した時雑木林のなかに潜り込み、高さ約20メートルの大樹の頂上にいる約20羽の山鳩に発砲した。
この群れは生れて初めて撃たれたらしく、ドスンという音を立てて2羽が落ちた時一斉に空中に飛び上がりヒラヒラ付近を舞っていたが、また同じ木に舞い下りた。 これには私の方があきれ返ったが再び第二弾発砲、中央の1羽がドスンと落ちたが、今度は日本の烏のようにどこにか飛び去ってしまった。
落ちた山鳩は日本の山鳩より一回り大きく、海を少し離れたアンダマン群島の山鳩が日本のより一回り小さいのに比べて不思議な気がした。
雑木林の中を歩くとき眼前2メートルぐらいの梟からジット睨みつけられたり、また猪のような野豚が跳び出すという一幕もあった。
私とは別に、軍医長は看護兵をつれて原住民の宣撫工作として部落に診療に出掛け、皆から大いに感謝されお礼としてもらった生きた小豚の首に縄を付けて帰艦してきたが、慢性マラリヤが多く肝臓が堅くなっている者が多く、これが死病となって長寿を全うできないであろうという話であった。
その日の夕食には艇長の落とした山鳩の肉が少しずつ配給されたが、軍医長の連れてきた子豚は暫くの間後甲板で皆から可愛がられながら育てられた。
私が「雁」に着任した頃は、我が12特根もビルマの首都ラングーンから進出してきたばかりで お膝元のアンダマン群島の防備だけで手一杯のようであったが、18年になってからはニコバル群島の配備も採り上げられ、12特根だけでなく昭南の陸軍部隊も配備されるような気配となった。
某日、昭南からアンダマンに帰ろうとする「雁」に、陸軍工兵連隊長の中佐殿が便乗してきてニコバル方面を視察される予定であった。 私は同官便乗中は中甲板の艇長室を全部提供し、水雷艇長として差上げることのできる最高のサービスをした。
この陸軍中佐殿は、私たちと共に親しく水雷艇「雁」の生活を数日過したのち退艦するに当たって私に語った。
「私は生れて初めて海軍の生活を身近に体験させてもらったが、陸軍生活に比べて思いもよらないような幾多の教訓を学ぶことができた。今度帰隊したら早速私の部隊にこの教訓を応用してみたいと楽しみにしている。」
私自身中学時代の陸軍式軍事教練の徹底した指導を受けていて、兵学校に入学した時その陸戦指導の徹底さがだいぶ低いような感じすら抱いていたし、また中学時引率されて行って地元の営内生活も体験していたし、陸軍大演習に中学を代表して参加したこともあったので、この中佐殿は言葉巧みにこの艦の艦内生活に同じ軍隊としてのダラシナサをそれとなく冷やかしているのではないかと疑ってみた。
しかし、語るうち私の疑問は全く反対であることが判った。 中佐殿が感心した点は、要するに家族的な和やかさの中に要所要所が確実、迅速に処理されていて、その処理の度合いもその目的に応じて適切に (海軍でいわゆる “スマート” に) 行われている点にあるようであった。
例えば、私が艦橋の前にある前部厠に入った後姿を艦橋からみた通信士が、
「艇長! 出港15分前になりました!」
と大声で報告する。 これに対し私が厠の中から
「艇長了解!」
と大声で応答する。 この光景などは、軍紀厳正を誇るわが帝国陸軍においてはおよそ見当たらない型の崩れた厳正ならざる光景であったらしい。
また、当直将校の発する号令で、各居住区から我れ先にゾロゾロ人が出てきて思い思いの動作を不揃いに始めたかと思うと、これが有機的に自然のうちに組織としての行動を完成してゆく。 これに類するような各種の艦内生活が中佐殿には珍しく心に映じたようであった。
開戦後、以前にも増して国防の両輪である陸海軍が仲良くやれということは機会あるごとに強調されていたが、この中佐殿のように中佐になるまで海軍生活を全然知らなかったということも上層部の考慮が欠けている一端かとも思われたが、このように第一線において海軍の姿をまず知ってもらったことはせめてものプラスになったと思った。 仲良くするためにはまず知ることから始められなければならないはずである。
(続く)