2008年11月08日

『聖市夜話』(第10話) 宝の船

著:森 栄(海兵63期)

 ラングーン被害の修理は、平和に眠る昭南(シンガポール)で着々と行われた。 285個の破口の修理は簡単であったが、3番砲は内筒に損傷あり、射つととう発の虞ありと診断され、日本から砲身を取寄せることとなった。 2番砲は外筒に傷を受けていたが、これは使ってよろしい。

 26名の乗員の補充と3番砲々身は、なかなか着きそうにもなかった。 遊んでいる間に、ちょっとボルネオまで一走りして来い、ということになった。 同島北岸ミリー港前面機雷敷設の協力である。

 久し振りに見る本式の機雷敷設艦が、極めて迅速にアッという間に敷設してしまった。 「雁」は牧場の犬のように敷設海面の外側で警戒し、無事任務を終って昭南に帰った。 こんな任務なら何回やってもよろしい。

 次いで命あり、

 「水雷艇「鷺」重要物件を搭載しサイゴンから昭南まで運ぶから、「雁」は昭南で「鷺」に横付して受取り、ペナンまで運べ。なお荷物の内容は艇長限り、その受渡書類に署名せよ。」

ということになった。

 18年4月始め、昭南軍港で「鷺」と「雁」は仲よく舷側を合わせて横付し、荷品を落されては困るので舫索を特によく取る。

 「鷺」艇長は私より一級上の吉井俊雄大尉で、生徒時代にも同分隊で兄のように私達を労ってくれた先輩である。 私は殺伐たる戦場の後方の地で、この兄のような吉井艇長の艦と横付できたことは、心も和ぎ、語り明かしたい事ばかりであったが、作業はそれを許さなかった。

 吉井艇長は、大型の受渡書類を私に渡した。 内容は日本国大蔵大臣から、独国大蔵大臣あての99.9某パーセントの純金2トンであって、この内容は艇長限りと指示されていたので、私は先任将校にすら漏らす訳にはゆかなかった。

 荷物は約50キロずつの計40個に分れ、部厚い板材で作られた木箱に納められ、封蝋が施されていた。 私はただ笑って移動作業を眺めていたが、勘の良い古い下士官たちは、若い兵たちに、「一生に二度と足下にできぬ貴重品であるぞ。よく踏んでおけ。」 と言って、自ら範を示した。 真新しい木箱の上面も、「雁」の悪戯坊主たちに踏まれて見るみる内に靴の跡で薄汚れていった。 移し終るや直ちに横付を離し、吉井艇長に帽子を振りながら、彼南(ペナン)向け昭南出港。

 途中の行動は単独である。 万一敵潜のため「雁」が突如雷撃を受けて、電報打つ暇もなく轟沈するならば、この沈船は宝を抱いて海底に眠る “宝船” として話の種となるであろう。

 私は「鷺」と横付する前から約3組の位置浮標を用意させ、それぞれの投入係りを定めたが、幸いにして途中平安に走り続けこの用意は無用に終った。

 マラッカ海峡を一路酉航し、ペナン沖に待機するであろうと思われる敵潜に対して厳重な警戒をしながら何事もなくペナンに入港した。 ペナンでは潜水艦基地隊桟橋に横付。

 この宝物はあとで遣独潜水艦に積まれたはずである。 あの2トンが果して無事ドイツに着いたかどうか私は未だに知らないが、吉井先輩の顔と共にこの緊張の行動は忘れることができない。

(注 : この「雁」がペナンに運んだ金塊2トンは、同地で「伊29潜」(艦長:伊豆壽市中佐、51期)に搭載され4月5日出港、4月28日マダガスカル東方海面にて独逸からチャンドラ・ボースを運んできた「Uー180」と会合し、同氏や技術供与物品等と交代に江見哲四郎中佐(50期)及び友永英夫技術少佐と共に同艦に移載、そして「U−180」は7月3日無事にボルドーに到着しています。 その後のこの金塊の行方は・・・・? )


(第10話終)
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