著:森 栄(海兵63期)
当時の海軍公報には、某士官がスラバヤで商品を沢山買って処罰されたというような記事が少なからず見受けられた。 物資のない内地の家族に、相応の品を送ることは認められていたが、処罰された連中の買った物はいずれも予想をこえる量にのぼるものであった。
私が「左砲戦にするぞ」と啖呵を切ってから2、3か月経った頃であったか、陸上機関の中心となる部隊の某高官に東京転勤の電報が来た。
日頃経歴ご自慢の同氏は、飛行場に集った多数の見送者に対し、次の栄転先をあれこれと楽しそうに予想したそうであるが、同氏が機上の人となり、東京に着かないうちに「予備役編入、即日召集〇〇〇指揮官」の追打ちの電報が発せられた。
この峻厳な措置は、眠れる昭南に警醒を与えたようであった。 私たちは「帝国海軍未だ健在なり」 とて士気を維持したが、全軍の見せしめとなった当人の不名誉については、まことに同情に堪えなかった。 また全軍の軍紀風規の責任者は、涙を揮って馬謖を斬る決断も必要であることを教えられた。
18年4月1日塩沢(幸一)大将来昭に際し、一南遺大川内(伝七)長官官邸において、所轄長を主とする歓迎会食が行われ、私も末席の栄に浴した。 この時の出席者は、大将、中将各1、少将6、勅任技師1、大佐15、中佐2、少佐3、大尉2、計31名であって、私のほかの大尉は塩沢大将の有本(正)副官(64期)であったから、私は文字どおり所轄長の末席であった。 また少佐3は副官2と機関参謀1であった。
夏軍装略綬で2000開宴というので、私は末席の身に恐縮して約30分前早目に官邸に着いた。 見れば、昭南10根の副官土屋少佐(鉄彦、58期)が忙しそうに会場準備中である。 いくら副官のお仕事とはいえ私より約五つ上の先輩である。 私は言った。
「今夜のご招待光栄に存じます。何かお手伝いいたしましょうか。」
土屋先輩は驚いたような目をして笑いながら答えた。
「いやいや、君は今夜の大事なお客さんだ、ソファーにでもゆっくり座って待っていて下さい。」
私はこの身近かな場に、帝国海軍の美しい伝統が残っていることを喜び、もし将来私が参謀、副官になることがあったら土屋先輩の例に習おうと思った。
( 注 : 旧海軍からの伝統の一つに、「指揮官」というものを重んじることがあります。 即ち、公的な場では、指揮官でない者は例え階級がどんなに上であろうと、指揮官たる者の立場を立てるということで、上記のようなことはその一つの例で、儀式で整列するような場合は、指揮官は最前列又は最上位の席に、その他はその後列又は下位の席、と言った具合です。 このことは副官と指揮官の間ばかりでなく、参謀と指揮官の間を始めその他の関係でも同じです。)
商港にある工作部の船渠に入渠するとき、船渠直前の強い流れの中で片方に沈船あり、約90度以上の急回頭の必要があり、新米艇長の私に果してウマクやれるかどうか大きな疑問であったが、ほとんど船首を沈船に載せて、後部指揮官の悲鳴にも近いような刻々の報告を聞きながら、強引に機械、舵を使って辛うじて入渠に成功した。
運用術教官として何も知らぬ生徒を前に、同じことを4回ずつくり返して2年間を過した私であったが、操艦はやはり金玉を上下して冷汗をかかないことには腕を磨けないことを知った。
また入渠中水泳指導官の計画によって、商港地帯にあるクラブのプールに半舷ずつ泳ぎに行った。 プールにはドイツ特設砲艦の青い日の乗員も嬉々として泳いでいた。 彼等は「雁」の乗員に比べ水泳術の方は得意でないようであったが、その顔色が健康で若々しさに満ち、前途に明るい将来を確信しているように見受けられ、これなら英米の厳重な封鎖線を突破して行けそうだと感じた。
またプール往復で岸壁のドイツ特設砲艦を横から見る、日本で積んだかと思われる長柄の甲板刷毛、ゴム長靴の多数あり、友盟ドイツも日本以上に物資欠乏らしい。 しかし特別の装備もなさそうなこの小艦が遠く印度洋、アフリカ南方、大西洋を踏破して祖国ドイツに帰る今後の苦難を思い、彼等のドイツ魂に深き敬意を払う。 そして第一次大戦に示されたドイツ海軍の先輩勇士達のように、最後まで立派に善戦してもらいたいものと切に祈った。
(第9話終)