著:森 栄(海兵63期)
18年2月1日ラングーンで被爆した「雁」は、2か月前と同様再び昭南(シンガポール)に走り修理に従事した。 自分の縄張りの中に修理場所を持たぬ悲哀さも感じたが、また一面ここまで来れば生命だけは保証されるので、修理様々といった嬉しい安堵の一念もあった。
主計長は早速水交社の中に「雁」の単独家屋を借りてくれた。 この水交社は昔ドイツ人経営の 「グッド・ウッド・パーク・ホテル」 であった由で、敷地大約10町歩もあったか、こんもりとした森林の中央に最も大きな広い本館があり、本館内に受付・食堂もあり、大サロンにはピアノも備付けられ、時々若い士官がピアノを弾いていて久し振りに家庭に帰ったような安らぎを覚え、遙か故国の家族達を思い出し、思わずホロリと感傷的にさせるものがあった。 ピアノの音色また罪深いものがある。

(現在の“Goodwood Park Hotel” 当時の趣が今尚残されているようですが、
周囲は市街地になってしまっています。 同ホテルHPから)
また、この水交社には、海軍省嘱託とか軍令部嘱託とかの肩書を持っている報導班員・経済調査員など、軍人以外の色々な専門家が来泊してきて賑わっており、戦(いくさ)専門の私達の方がむしろ少ないぐらいであった。
彼らは私達が敵と交戦して第一線から帰ってきたと知ると、ご馳走を差上げたいとて招待してくれ、第一線の生々しい体験談を熱心に尋ねた。 そして彼らからは、「陸軍に行った友人は冷遇されているのに、私は海軍に呼ばれて感謝している。」 とて、その比較を聞かされることが1人2人ならずしばしばであったのには驚かされた。
彼らの陸軍に行った友人には、下士官待遇の実例が多かったが、これを語る人たちは尉官待遇の人が多いようであった。 陸海軍の中央部は、もう少しうまい具合に打合わせてやれんものかと思うことであった。
さて、この本館の周辺の森、庭の中に所々に独立した2階屋があって、「雁」は12月の時に味をしめて、再び元と同じようなこの離屋を数日借りることに成功したのであって、この成功は毎回主計長の手柄であった。
いつも3、4人で連れ立って行ったが、この自称「雁の家」に着くと、まず浴槽に湯をなみなみと入れて汚れを落し、洗濯物は庭の芝生の物干場の釣金にかけ、ベランダに寝椅子を出して雲一つない濃紺の空を見ていると、ウトウトとして夢路に入り戦を忘れた。 庭の洗濯物は1時間足らずでよく乾いたが、毎日午後3時過ぎにくる猛烈なスコールで夢を破られることもしばしばであった。
夕闇迫れば勇気凛々、半袖半ズボンに身を固め思い思いに町に出かけ、ある者は映画に、ある者はレストランにビフテキを食いに出かけ、ビールで良い気持ちになり、バンドの演奏付で居合わせた陸軍さんと共に、「遺骨を抱いて」 を歌って涙を流した。 特に昭南の夜風の爽快さは印度人のワイシャツの裾のヒラヒラしていたことと共に懐しく想い出される。
日頃薄汚い我れ等小艦乗り達が、急に金持ちになったように、日本で味わいえないような休養の一時をこの赤道直下に過していたのであるが、それ程左様に昭南の陸上には英国人の残して行った美しい邸宅が沢山あった。
海軍諸部隊の幹部も、思いもよらぬ美しい邸宅に入り女中下男をおき、送り迎えの車もまた上等の外車であった。 入港早々の我々が、狭い艦内で洗ったヨレヨレの薄汚い防暑服で司令部に行くと、相手の司令部員はあたかも人種でも違ったかのように、垢抜けのしたピンと糊付けされた服で現われ、遙かに離れた第一線のことよりも、その日その日の陸上の行事に多くの関心を抱いているようであって、常に第一線を最優先とした帝国海軍の伝統からみて何かそぐわぬ気風のあることを感じた。
入港直後燃料請求に行った「雁」の使いが、記入用紙が違うとて軍需部係官に突き返され、トボトボと再び「雁」まで帰ってきた。
また軍港から商港に通う海軍バスの中では、陸上部隊の顔のきく古い下士官が豪然として最良の席に頑張り、薄汚れて入港してきた掃海隊、駆潜隊あたりの士官達が昭南とはこんな所かと遠慮して小さくなって座っていた。
血気にはやる私は、「帝国海軍の伝統今やいずこ?」 と憤慨し、ゴルフの棒の頭を切り落した杖で、見つけ次第態度横柄なる者を殴りつけ、最後に必ずつけ加えた。
「帰ったら副長に言え、バス内の行儀不良で「雁」の艇長から殴られましたと。」
私はこれで眠れる陸上部隊に喧嘩を売りつけ、指揮官同志で事態を解決しようと考えたのであったが、抗議を申し出てきた所は一つもなかった。
また軍港近くには士官用宴会場があり、毎晩繁盛していたが、ここも顔の売れた地元の士官で荒されていて、たまに来る薄汚れた小艦乗りに対するサービスは冷たかった。
「第一線部隊優先」 を忘れたような陸上の海軍諸機関の傾向について私は所轄長会議で発言し、「このような傾向が改善されないならば、私は右砲戦を左砲戦にしますぞ。」 といって厳重に抗議した。 少将・大佐を主とする所轄長たちは、生意気な若造奴とて私を見たようであったが、一南遣長官は温顔の裡に私の意見を障ることなく最後まで良く聞いてくれた。
(続く)