著:森 栄(海兵63期)
血染の海戦記
18年1月末ポートブレヤ基地に帰投。 12特根のK首席参謀と後任のT参謀、交代のため申継ぎ中と聞く。 K参謀曰く 「ラングーン方面引継ぎのため、1泊2日の予定で同地に行ってくれんか」 と。 私は、全般海域の戦局の緊迫化に鑑み、同地には早朝入港し引継ぎを一刻も早く終了して、その日の内に一刻も早く同地を離れられるよう希望を申入れたところ、K参謀は言下に次のように答えた。
「艇長!そんな神経質に考えなくても大丈夫だよ。」
この言葉は今だに心に残る。 ここで私は司令官にまで強く申し入れるべきであった。 しかし若い新米艇長にはそれ以上一歩踏み込む気迫がなかった。 日頃尊敬する首席参謀のこと故、敵状に関しては私以上に知るであろうと思った。
「雁」はこの新旧首席参謀の2人を乗せて北に走り、2月1日朝ラングーン港に投錨し、この両参謀は陸上に上がった。 恐らく所在の陸軍指揮官への挨拶から始ったのであろう。 (あとで推定するに、この頃同方面にいるスパイたちは、「雁」の入港をカルカッタに電報している。)

(昭和17年頃のラングーン(現在のヤンゴン)港)
私は2か月前のポートブレヤ、およびその後の敵機来襲状況に鑑み、昼間は敵機来襲の算大なりとし、乗員の上陸を見合わせ厳重な対空警戒を命じた。 私自身旗甲板に丸テーブルを出し、対空警戒を兼ね斉藤忠著「海戦」を読む。 日中は無事過ぎた。
艇長従兵、中池末次郎水長が上がってきて、士官室の 「食事用意宜しい」 を告げた。 私は階段を下りて士官室の食卓についた。 早目の夕食である。 当直員は対空哨戒の部署についている。 当直以外の士官が士官室で食事を始めた。
箸を運ぶこと数分、突如 「空襲警報」 のブザーが艦内に鳴り響く。 中池水長は私に軽く一礼し、お盆を卓上に残し颯爽として後甲板に走った。 彼は3番砲々員であった。 これが、私が彼を見た最後の瞬間となった。
私も階段を駆け上がり、七倍双眼鏡を首に掛け、艦橋屋根上の信号台に腰掛けた。 敵爆撃隊はすでに市東部に侵入、一直線に「雁」上空に向いつつある。 お馴染のB24重爆7機である。
「対空戦闘」 下令。 敵の高度は今度も用心深く、約8ないし9千メートルと見た。 しかし、今度は水平直線飛行中の爆撃である、相当の精度を出すであろう。 「雁」の主砲3門は轟然と火を吐き続けた。 わが主砲弾着、よい所に炸裂、敵機は編隊を崩さず一路進入。 眼鏡で見ていると砂のような小型爆弾を次々にポロポロと投下し始めた。
小型爆弾の弾幕は前後左右に「雁」を包んだ。 弾着の瞬間私の足下約8メートルで、1番砲々員長山本隆二上曹が上甲板上に大の字に斃れた。 次に3番砲の発砲が止まった。 投弾全部終るまで正に数秒の時間である。 時に1609。 私は信号台から滑り降り、艦橋の階段を駆け下り後甲板に走った。
中部甲板の2番砲、後部甲板の3番砲の付近は一面血の海。 砲員は砲側を囲むように倒れ、肉片飛び散り、誰の腕か、誰の足か、阿修羅の惨状。 折からラングーン港内の鴎、何千となく「雁」の上空に群り、上甲板から流れる肉片を先を争って啄む。
軍医長、看護員、元気な者は機敏に走り回って救急処置に総力をあげる。 私は付近を通る陸軍の大発を呼んだが、上空ばかり見て横付けしてくれない。 「雁」上空を通過した敵編隊は、「雁」に投下し損った残り爆弾を、上流約10キロにいた商船に落すのが見えた。 ようやく1隻の大発が横付けして、戦死者、重軽傷者計26名を乗せ陸軍病院に運んでくれた。
K、T両参謀が真っ青な顔で帰ってきて、低い声で言った。 「私達は飛行機で帰るから、「雁」は直ぐ出港してシンガポールに修理に向ったらよいだろう。」 私は戦死者負傷者に代って、K参謀を鋭く見つめた。 しかし、恨みは参謀を説得できなかった私の気力の弱さにあった。 部下を持つ艇長は味方に対しても強くなければならない。
重傷者よ!死ぬなかれ、軽傷者よ!早く治って帰って来い、と心に叫びながら抜錨、日没までに行けるところまで河を下らねばならない。 河の中の夜航海は不可能であった。 日没後下れるまで下って、ようやくイラワジ河河口に達し投錨。 水線付近の約90の木栓を打ち直し、シンガポールまでの外洋の行動に堪えるように備えた。
(続く)