著:森 栄(海兵63期)
1.「雁」の侍たち
当時の水雷艇、駆逐艦には副長という配置は無く、“先任将校”が次席指揮官であったが、「雁」の先仕将校は私より約3つ年上で、東京高等商船卒、日本郵船(NYK)在籍の坂元正信予備中尉(のち大尉)であった。 海軍流にいえば、私の1号か2号をコレスポンドとする先輩である。 こんな先輩を自分の女房役とすることは、如何に海軍省人事局の命令とはいえ、若僧の私には少なからぬ重荷を与え続けたが、彼の軍紀厳正なる人柄と周到な勤務振りは、遂に艇長は艇長として私をその職に在らしめ、私の思慮判断を全幅発揮せしめたのであって、私の初陣、「雁」においてこのような立派な先任将校を得たることは、私にとって最も感謝すべきことの第一であった。
当時NYKは日本の商船界の基準となる会社であって、日本商船隊のお手本となる最高の軍紀風規を持っていたことは、私も十分認識して尊敬していたが、「雁」艦橋の海図台の上で、彼が私に説明する際、ディバイダーを逆にして地点を指示する躾のあることに気がついた。 これはよくあることであるが、説明者のディバイダーと上司の指先が同時に同所を指して、上司の指を傷けることのないようにとの、NYKの良い躾のようであった。
また日常勤務において、彼が私に対談する時、また士官を集めて説明する時、部下に示達する時、彼の手には必ずメモ用紙が見られ、一言一句を忽せにしない緻密周到さが見受けられた。 メモ用紙を善用することは、事は簡単であるが、これをシッカリと身につけた海軍士官は、坂元大尉をおいて他にそう沢山見られるものではなかった。
そして疑問の点は先ず諸例則、内令提要、操式、教範から研究せられていたので、私は常に彼の補佐に信頼し、更にその上の次元のことを思い巡らすことができた。
私はどちらかといえば厳格な方であったが、彼は士官室の“和気”の中心として、予備士官、特務士官、准士官たちの心温かい母親役を果してくれ、全乗員の敬愛を集めたのであった。
先任将校の次に、砲術長尾崎予備少尉と、機関長付大久保予備少尉という若い予備士宮があり、尾崎砲術長は大阪商船(OSK)在籍であったが、OSKの出身と思うせいか、厳正なNYKの気風と対象的に、まことに自由明朗闊達で、体に溢れる若々しさを持っていて、若い乗員たちの士気の根源であった。
この竹を割ったような土佐出身の尾崎砲術長も、日の浅い海軍教育を終えてすぐさま西第一線の重要配置に就けられたので、着任当初は砲術長の職を重荷としたが、私はそれが本人の罪でなく、海軍の罪であることを良く知っていたので次のように激励した。
「君が砲術長をやらずして誰がやるか。わからぬところは先任将校に聞け。そしてわかっただけでよいから元気よく指揮をとれ。」
これで砲術長は以後弱音を吐かなくなったどころか、強い印度洋の強烈な太陽輝く砲戦指揮所では、大声で指揮棒を振う元気な彼の姿が毎日「雁」の士気を振い起こした。
大久保機関長付も機関科員の士気の根源であった。 砲術という商船こない配置に就けられた砲術長に比べれば、機関科の方は若い予備上官にとって、こなし易い点はあったであろうけれども、機関長付の明敏な頭と真面目な勤務は衆望を集めた。
機関長は老練な特務士官であったが、航海士には江田島兵学校選修科学生出身の堀場特務少尉がおり、私以外で江田島の飯を食ったことのある唯一の存在であった。 さすがに幅の広い考え方をもっていた。 乗馬が好きで乗馬服・靴をこしらえて昭南、彼南(ペナン)と行く先ごとに私の乗馬指導官をやってくれ、今でも2人で乗り回した当時の写真が沢山残っている。
この航海士は、仁王様のような立派な顎髭を生していて、運動神経に優れ、陸の上のことなら何んでも来いという人であったが、特務士官には珍しく艦に弱く、水雷屋を志す者としてこれまた珍しい同病の私と、お互に慰め合って船酔いを我慢し続けたが、のち希望どおり内地陸上航空隊に喜んで転出して行った。
別の特務少尉に堀田掌水雷長がいた。 常にユーモラスな彼は、ポートブレヤ港内で軍艦ブイの上に座って敵の洗礼を受けたが、釣指導官でもあった彼がいれば、こと水雷科に関しては何んでも来いであって、釣りということも彼の見解では水雷科に属するもののようであった。
そのほか若干の特務少尉、兵曹長がおり、別に単独水雷艇として大学出身の主計中尉と、軍医中尉が配せられ、准士官以上合計約15名であったが、古い1曹が兵曹長に進級し、内地の准士官講習に赴任する便が少い時などは、准士官以上が20名余に達することもあった。 これら准士官以上が毎食時士官室に集って賑やかに食事をしたが、この一堂に会するということは、行動機敏を要求せられる小艦艇の統率の面において、見逃すことのできない貴重な船体構造の特徴であった。
( 注 : 「鴻」型の内令定員表では、士官x6、特務士官x2、准士官x2の10名であり、これに単独艇としての増加2名を加えて計12名ですので、現実としてはかなり多い数であったことになります。 これは乗員数でも同じで、規定上と実配員とは異なるということの一つの例でしょう。)
2.「雁」の縄張り海面
さて「雁」の縄張りは、北はビルマのラングーンから南に下がって、司令部のいるアンダマン群島、その南のニコバル群島、さらに下がってスマトラ最北端のサバン島に至る線であって、印度半島の連合軍に対峙し、その飛行機、潜水艦、水上部隊の侵入を監視していたのであるが、敵もまた北はカルカッタ、南はセイロン島にB24重爆隊を置いて、日本艦隊の来襲を監視していたのであった。
この我が第一線の後方、すなわち東方であるマレー半島には良い基地が少なく、ずっと下がってサバン島の東方ぐらいにペナンがあった。 ここは隣りの区域である九特根の司令部があると同時に、印度洋方面に作戦する潜水艦の基地であり、また遠くドイツに派遣される潜水艦の最終の港でもあった。
そして敵B24の攻撃範囲は、カルカッタとセイロンとの2つの基地によって、我が12特根の全担当海域を覆っていたので、この担当海域内で「雁」の安眠できる港は皆無であった。 17年11月末ポートブレヤにおいて被爆した「雁」は、昭南にて修理ののち再びポートブレヤに帰ってきたが、この頃の司令部は、この隊内で最も戦闘力の強い高速艦をどこに置くかで苦労したようで、結局は、担当海域を哨戒せよ、呼んだら直ぐ帰ってこい、敵の爆撃目標となるな、というところであったらしい。
カルカッタ爆撃隊は11月爆撃で味をしめ、「雁」の捜索はその後執拗となってきた。 こちらもこれに応じて敵機の目を騙しながら哨区に健在し続けて、敵の潜水艦、水上部隊が侵入してきたならば、いつでもこれを撃破することができるように、得意の脚を使って縦横に走り回って哨区内に神出鬼没の行動を続けた。
特に据え斬りに遭った教訓は生々しかった。 名もない入江に投錨し、海岸に作業隊をくり出し、船体全部に椰子の葉を被せ、私は内火艇に乗って約2キロの沖合から点検したが、化け方も回を重ねるごとに上手になった。 上甲板通路では全乗員の愛猿「吉兵衛」が、椰子の葉と皆の肩の上を嬉々として跳び回った。 この椰子は対空・対潜のためのものであった。
一方、行動中の対潜のためには、敵潜は速力と方位角によって雷撃してくるので、この2要素を騙す必要があったが、速力はなかなか騙せないので、方位角を見誤らせることに努力を集中した。
その1は、船体に大胆な迷彩(カモフラージ)を施した。
その2は、露天甲板構造物で、左右90度の面を表わす構造の前後に、先ず鋼索を張り、これに帆布を下げ鼠色に塗り、潜望鏡から見ると90度の面がわからないようにした。
その3は、単独行動であっても、同じ針路速力を長時間続けないことであった。
(第5話終)