著:森 栄(海兵63期)
イラワジ河口から南西に走ること約300マイル、翌10月6日印度洋上に浮かぶ監獄島、アンダマン群島の首都ポートブレヤ着。 陸上の景色はグンと変って、熱帯の島、強い太陽に強い緑の椰子が映える。 町の中心が町で最も立派な大きな監獄で、英国はこの孤島に植民地印度の政治犯と凶悪犯を収容していた。 日本軍は同島を3月25日占領して、英国の有難い置土産を貰ったものであった。 監獄外の町の住民は、殺人前科何犯というスゴイ連中の子孫だそうで、前科3犯ぐらいではまだ格式が低い。

(1976年発行の地図から)

(2008年現在のポートブレア : Google Earth から)
早速上陸して、初めて石川司令官に伺候。 司令官は孫のような若い艇長に、紙上に出入港要領を書いて、まず運用術の教育が始められた。 私はそれまで2年間、72期の生徒に運用術教科書を、週4回同じことをしゃべり続けてきていたのであった。 ふと見ると、酋長のような司令官の頭上の天井に、薄よごれた……毛布が、ヒラリヒラリと動いている。 扇風機の代用らしい。 退室して隣室を覗くと、件の毛布の原動力は使用の印度人であった。 ムッソリニーをやさしくしたような堂々たる司令官が、また堂々たる南海の酋長のように見受けられた。
当分周辺海域の洋上哨戒を命ぜられたが、12特根の担当は、北はラングーンから、南はスマトラ島西端サバン島まで、南北約800マイル、12ノットで走っても約5日弱かかる広さであった。

あれを思いこれを思う時、新米艇長どうしても毎晩よく眠れない。 夢幻のなか、次々に懸案事項が出てくる。 片っ端から艇長室の枕の上にあるリノリウム製の小黒板に書きとめ、翌日の総員起しを待って、この対策を研究し実施を下令するという毎日が続いた。 後から考えれば、この頃は中甲板の艇長室で眠れたのであるから正に良き時代であったわけである。
行動を終って再びポートブレヤに帰った某夜、この夢幻のなかに重く低い「ヅーッ」という音、また数秒おいて「ヅーッ」という幽霊の足摺りのような奇怪な音を聞いた。 私は耳を疑い、ガバッと夜具を払って上半身を起した。 深夜の艇内はシーンと寝静まり、咳一つ聞えない。 皆遠く離れた故郷の夢でも見ているのであろう。 「夢であったか!」と思い返していると、また、「ヅーッ」ときた。
「走錨だ!」とようやくわかった。 この港内は、底質岩盤のところが多く、港内の流れもあり、錨掻きが悪いのであろう。 このままにしていたら皆寝静まっているうちに艦は浅瀬に座礁してしまう。 私は寝衣の上に雨衣をかけ、急ぎ階段を上がって深夜の錨甲板に出た。 港内の夜風は日中より少し冷えていて快く、監獄島の陸上の灯火は平和の眠りについている。 履いているスリッパで前甲板上の錨鎖を踏む。 (医師の聴診器と同理である。) 確に錨は滑っている。 私は横にきている当直員を走らせ、寝ている先任将校を呼んだ。 先任将校は若い艇長の鋭い神経に驚いたようであった。 応急的に錨鎖2節を伸ばし、走錨の停ったことを確認の上寝につき、翌日総員起し後転錨した。 これが私の「怪我の功名」となった。 “幽霊の足摺り”以後、若過ぎる艇長に対する全乗員約200名の不安は幾分少くなったかも知れなかったが、私の毎夜毎夜の不眠症は、全乗員の心配には関係なく約1か月の間タップリと続いた。
(第3話終)