著:森 栄(海兵63期)
17年10月5日、内報を受けて以来いろいろと心に画いた水雷艇「雁」に着任。 ジュネーブ条約、ロンドン条約による軍縮会議によって、駆逐艦の範囲に入れられず、制限外艦艇として誕生したこの水雷艇には、「千鳥型」4隻と「鴻型」8隻があり、私は刀剣用語によって、前者を二字銘水雷艇、後者を一字銘水雷艇と区別した。 二字銘が先に建造され、9年「友鶴」荒天中の訓練にて転覆し、この教訓を加え11年末から一字銘が出現した。 そして私は、13年12月から翌年5月まで、南京陥落の直後の揚子江において、一字銘の「鵠」航海長兼水雷長(中尉)として勤務の経験があったので、「雁」は2度目の同型艦であった。

(「雁」と同型の「鴻」)
一字銘は二字銘より船体は一回り大きく、全長83メートル19,000馬力、最大速力30ノット半、単装12糎3門は仰角55度まで利き、53糎3連装発射管1基を持ち、印度洋における排水量は1,530トン前後であって、どうみても大正中期の2等駆逐艦と同寸法ながら、行動力、砲戦力、魚雷航海通信など、あらゆる点において優越していた。 特に2等駆逐艦に比べ、高温高圧の蒸気を使い、前者は缶4缶のところ缶2缶であり、旋転式補機を採用しており、缶1缶で優に24ノットを出せたことは、主砲仰角55度とともに対空・対潜哨戒艦として極めて使い易い艦であった。
( 注 : 排水量の1530トンは余りにも過大であり、艦型の要目からして1050〜1150トンの範囲内と思われ、誤植・校正ミスかとも考えられますが、今となっては確認のしようがありません。)
前艇長福山強少佐(海兵58期)は、若過ぎて危っかしいような新艇長(海兵63期)に対して、懇切な引継ぎを終えてから、あとで次のように付け加えた。 「後任艇長の電報が入ったので、現役士官名簿を調べたが君の名前は見つからない。予備士官かと思って調べたが予備士官名簿でも分らない。あとで砲術長がぶ厚い名簿のつづり目の近くから、ようやく捜してくれたよ。〜全く若返ってきたもんだね〜」と、さも感歎したふうであったが、私自身ももちろん全く同感で恐縮していたのである。 しかし、かつて1次大戦の話をきいた時に、戦時となれば艦は一挙に増えるが人間は間に合わぬので、特に年期を要する配置ほど若くなるぞ、と言われていたから5年若くなるぐらいは当然であろう、とも心中思ってはいた。
そして、士官室にて貫禄十分な前艇長を囲む侍ども、先任将校、主計長、軍医長が皆私より年上であるのには驚いた。 なかでも元気の良さそうな山田萬次郎軍医長(軍医大尉)は、さっそく私に第一声を浴せかけてきた。 「それでは僕が佐高生の時に、森艇長は佐中生だったんですね〜」、と愉快そうに笑った。 これだけで十分である。 年齢の上下には全く頭が上がらない。 こんな時は同県人というものはかえって具合が悪い。 「艇長が若いのはよいが、若過ぎると艦が危い」という不安は、私の着任後、ただちに全艦に拡がったようであった。
しかし、この主計長(主大尉)と軍医長(医大尉)は、第11水雷隊々付であったものが、隊の解隊によってその乗艦に天下りしたものであったので、間もなく若い美少年たち、大木幹雄主計中尉と中沢覚軍医中尉と交代し、いそいそとして日本に帰って行ったが、坂元正信先任将校(予備大尉)だけはその後長く翌18年4月まで在艦し、新米艇長の私の最も大事な女房役(副長役)となってくれた。
すなわち「雁」は単独水雷艇であった。 直属上級指揮官は、アンダマン群島第1線に所在する第12特根の石川司令官であって、中間に隊司令は存在せず、私は所轄長でもあった。 時に私の年齢は、27才10か月。 引継ぎのあと、私は江田島からの問題であった「ラングーン出港要領」を尋ねたが、予想に反して河幅はもう少し余裕もあり、艦首を岸に当てるほどの必要はなく、まず上流に走り、河下に十分な距離を作ってから、機械舵を強引に使って、ドンドン流されながら回頭するということがわかり、そのくらいならできそうだと安心した。
福山少佐はいそいそとして、日本向け赴任の途についた。 同氏は16年10月より「雁」艇長として、上海、香港、昭南と次々に進撃し、昭南の陸軍部隊のビルマ洋上進出を支援したのであって、その1年間の足跡は二次大戦の西方への拡大を、そのまま物語っているものであった。
「出港用意!」
教わったばかりの出港要領、この辺でよしと思って回頭にかかる。 艦首の回りは遅々として進まぬが、その間艦の流されること早く、足の裏がゾクゾクする。 ようやく下流に向きホットする。 これで第1回目の出港は成功。 イラワジ河を下ること70マイル、しかし揚子江「鵠」で鍛えた腕なら初めての河でも水深と流れの状況は大体わかる。 河口に出て印度洋上針路南西、一路アンダマン群島に向かう。
(第2話終)
父は艦を降りた後、フィリッピンのジャングルで終戦を迎えました。その後昭和26年から高知県の香美郡で医院を開業しておりましたが、一昨年の5月に永眠いたしました。
軍医時代の父をご存知の方にこんな形でも接触できましたことを大変うれしく思いますと共に、父の名前を覚えていてくださったことに心から感謝いたします。
本回想録の著者 森栄氏は、残念ながらお亡くなりになって久しいのですが、私が本ブログにてこの回想録を公開しました経緯などは、連載の最初と最後に述べましたとおりです。
元々はもう40年近く前の海上自衛隊の部内誌に掲載されたものですが、このまま世に出ること無しに埋もれてしまうことを惜しみ、私の責任において公開いたしております。
http://navgunschl.sblo.jp/article/21747330.html
http://navgunschl.sblo.jp/article/31227325.html
お陰様で、花岡様を始め何人かの方に、お身内のお名前があり、当時のことを知ることができたとお知らせいただいております。
このことだけでもここで公開した甲斐があるというもので、管理人冥利に尽きます。
ご尊父様は、患者さん達はもちろん、地域の皆さんから信頼され親しまれた、ご立派なお医者様として生涯を終えられたものと拝察いたします。
ご尊父様のご冥福を心からお祈り申し上げます。