2025年01月17日

あれから30年 阪神淡路大震災


今年もこの日が巡ってきました。 そして今年は平成7年の阪神淡路大震災発災の日から30年になります。

Hanshin_tlecard_01_s.jpg

その後東日本大震災や昨年の能登半島沖大震災などが生起し、防衛省も三自衛隊挙げての災害派遣が実施されました。

しかしながら、この30年前の阪神淡路大震災においては、海上自衛隊としての災害派遣の全容さえいまだに海上自衛隊からは一般に公開・公表されることはありません。 おかしなものですね。

犠牲になられた方6千4百名以上、負傷者約4万4千名、住宅の全半壊など30万戸以上、インフラなどの甚大な損壊、それにピーク時には30万名を超える避難者、などなど ・・・・ そしてその数値に現れる以上に、現地で直接見るその惨状は実に目を覆わんばかりでした。 そして満足な暖も無い避難所で不自由な生活を強いられる多くの避難者の方々の姿があったにも関わらず、です。

そこで、昨年、この阪神淡路大震災における海上自衛隊の災害派遣について、現地司令部の作戦幕僚としてこれに当たった者として、この海自災害派遣部隊の派遣詳報の全文を公開しました。

   https://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/Shiryo/22_Hanshin-Awaji_JMSDF_Detail-Rep_H07.html

Hanshin-Awaji_JMSDF_Detail-Rep_cever_s.jpg


そして、当時の私の所感を次のところで公開しております。

   https://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_015-2.html
   https://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_015-3.html

また、私の当時の思い出を12回にわたり当ブログにて連載しております。

   http://navgunschl.sblo.jp/article/190118840.html

私は発災の日から48日間、神戸に進出して46日間、海上自衛隊災害派遣部隊司令部作戦幕僚として、集まってきた海自派遣部隊の隊員一同と一緒になって、出来る限りのことを一生懸命やったつもりです。

それでも、今でもいつも、もっと一人でも多くの人を助けられたのではないか? もっと多くの事ができたのではないか? と思い続けています。

あの大震災で、お亡くなりになられた方々、当時被害に遭われた沢山の方々のことを思うと、現地に進出して災害派遣に携わり、その惨状を目のあたりにした者としてそう思わずにはいられません。

神戸は確かに見かけの姿だけは立派に復興してきました。 しかしながら、この時の経験・教訓は決して忘れてはならないものです。

posted by 桜と錨 at 13:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 気ままに
この記事へのコメント
お疲れ様です。あの震災では叔父を亡くしました。従姉妹と連絡が取れ、クルマでは無理だろうということで愛知から播但線経由でなんとか遺体が搬送された加古川へ行きました。もうあのような数の霊柩車を見ることはないだろうと思います。喪服で葬儀に出るのが申し訳ないような、皆、着の身着のままで負傷された方まで参列していただきいたたまれなくありがたかったです。当時の派遣部隊のご活躍の陰には、上級の司令部機関との折衝など表に出ないご苦労があったのですね。
Posted by I谷 at 2025年01月27日 21:06
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