2023年02月02日

阪神災害派遣の思い出 (12・前)


これは是非ともお話ししておかなければならないでしょう。 阪神淡路大震災における海上自衛隊災害派遣部隊の現地司令部についてです。

(ちょっと長くなりますので2回に分けます。)

既にお話ししました様に、呉監では17日の発災直後から震災の中心が大阪・阪神方面であると判断しましたが、取り敢えずは神戸魚崎浜にある海自の阪神基地隊への応援を名目とする呉地隊の部隊の派出と航空機による状況偵察から手をつけました。 この段階では、まだ神戸があの様になっているなどは全く分からなかったからです。

17日の昼過ぎ頃から神戸の状況がテレビなどにより断片的に入りだしましたが、正確な全体像はさっぱり。

そして何よりも、阪神基地隊自体が震災で半分崩壊している上、電話回線も1本しか通じず、阪基本部の隊員は警急呼集でも帰隊でない者が多数おり、当直者や集まった者達も阪基やその周辺の被害確認や呉総監部を始めとする各部への連絡・対応などで手一杯でバタバタしており、呉監には現地の纏まった状況が全く入ってきません。

申し上げるまでも無く、阪神基地隊というのは補給をメインとする後方支援のための陸上部隊ですので、15掃海隊や1哨戒隊などを有するとはいうものの、本部そのものには実動部隊などのような幕僚機構が十分ではありませんし、指揮管制機能なども全くの不十分なところです。

呉監では災害派遣で動き出そうと思っても震災の全体像は掴めず、かつ兵庫県や神戸市からは待てど暮らせど災害派遣要請は一向になく、それどころか連絡さえつかない状況でした。

もちろん海幕などからの震災についての纏まった情報などは一切無し。

やっと17日の夜になって陸自の先遣隊の連絡幹部を通じて兵庫県庁から電話が呉監に入ったのですが、相手は “海自に対する災害派遣要請の方法が判らない” と。

そこで業を煮やした防衛部長が “この電話をもって要請があったものとする。 要請事項はこれ、これ、これ、で” と。 これを相手が了解しましたので、呉監はやっと正式に災害派遣として動ける様になりました。 17日の1950のことです。

そしてその僅か50分後の2040には発災直後に阪基支援名目で緊急出港させた38護衛隊 (とかち) が、続いて18日未明の0348には22護衛隊 (みねぐも、なつぐも) が、呉から阪基沖に到着し投錨したのです。

ところが、やっぱり相変わらず阪基との疎通ができず現地の状況がよく判りません。

そこで翌18日朝、呉総監が直接HSで現地へ飛んで状況を確認、そして阪基や神戸市などと調整をした結果、総監自身が防衛部幕僚を率いて現地に進出して海自災害派遣部隊の指揮をとる (とらざるを得ない) ことを決心されました。

そして19日朝になって総監は防衛部長及び2〜5幕僚室長と気象班長など防衛部幕僚10名を引き連れてHS2機で飛び、半壊した阪基の庁舎に現地司令部を置き、庁舎屋上に海将旗を掲げたのです。

(続く)

posted by 桜と錨 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと
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