海自の災害派遣もその第2期に移って海を経由した給水支援がメインの一つになってきました。 そして災害派遣部隊の撤収時期は神戸市の上水道の復旧完了が一つの大きな目安になりました。
そこで、司令部の情報幕僚 (呉監第2幕僚室長) が主導し、復旧工事の進捗状況を確認するために呉監2室や呉調査隊などからの隊員を使って毎日各地の現場へ出向いて調査を行いました。
この調査により、以後の必要な神戸市の給水支援量、そしてそのための所要の補給艦などの艦艇隻数や給水支援場所の選定などの把握が可能となったのです。
恥ずかしながら、私個人としては、海上自衛隊の調査隊というものが実際の場面で活躍し、役に立つものであることを始めて目にし実感した次第です。
この調査結果は毎日地図に纏められて司令部の朝の定例会報で報告されましたが、判り易くよく纏められたもので、ある日これを神戸市役所に業務調整の説明用に持っていった時に水道局の者が 「これは素晴らしい、是非私達にも定期的にください」 と。
まあ、本来ならばこれは水道局自身が調べるのがその任務であり、それを給水支援する側のこちらに通報してくるべきものだろう、と思いましたが (^_^;
呉監2室及び呉調査隊のメンバーを主力とするチームの活躍により神戸市の上水道の復旧工事の進捗状況が詳しく把握できましたので、これにより補給艦などによる給水支援の必要性は徐々に少なくなって来ていることが具体的に判明しました。
その結果、2月29日以降は水船や掃海艇などの小艦艇による市民に対するものだけでほぼ足りるようになると判断できたことから、徐々に派遣艦艇の数を減らしつつ、3月1日には後の現地指揮は阪神基地隊司令に委任することとして呉総監以下の災害派遣部隊司令部は呉に戻りました。
しかしながら、阪基では幹部の人手が足りず心もとないと言うことで、呉監幕僚の中で私一人が阪基に残されて災害派遣の司令部業務を継続することとなりました。
そして3月6日午後に神戸市役所に出向いて神戸市長から大規模な給水支援終了の確認書を受領し、翌7日にこれを持ってHSで48日ぶりに呉に帰りました。
その後も海自としては桟橋での小艦艇による市民に対する小口の給水支援などの業務は継続しつつ、3月30日になってこれらを含む実質的な海自の災害派遣業務を全て終了。
後は陸自による倒壊家屋の残骸除去支援などが残ったものの、最終的に4月27日に兵庫県知事よりの撤収要請を受けて全自衛隊の災害派遣の終結となりました。
( 私自身はこの終結を待たずに3月23日付で海幕勤務にさせられてしまいましたので、海自派遣部隊の災害派遣詳報の下書きを作って転勤したのですが (^_^; )
ところが、この大活躍してくれた呉監第2幕僚室長、私の候校同期ですが、災害派遣が終結してすぐ後に体調を崩してあっという間も無く早逝してしまいました。 災害派遣での激務が終わり安堵したことからだったのでしょうか。 大変残念で惜しいことでした。
(続く)
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それにしても総監部が前進して指揮を取られた英断は見事と思います。また、それを支える幕僚の方々。艦艇、基地の隊員諸官の当時の身を挺してのご活躍に頭が下がります。亡くなられた幕僚の方は残念でした。ある意味、殉職にも感じます。
呉総監が阪基に進出を決められたのは、元々の阪基が幕僚組織を備えた実動部隊ではなく補給をメインとする後方支援機能であったこと、震災による電話回線が極限されたこと、そして現地の情報がほとんど入らないこと、の3つが大きかったと思います。
そして、司令部はもちろん災害派遣に従事した海自隊員は皆一生懸命やったと思っています。 ただ当時は呉地隊はもちろん海上自衛隊そのものが、神戸のような大都市での未曾有の大震災が発生した時の備えが無かったことも事実です。 この時の教訓が東日本大震災で少しでも活かされていると良いのですが・・・・
呉監2室長は、自衛隊の災害派遣終結後であったため災害派遣との直接の因果関係が証明できないことなどから海幕は殉職と認めなかったものです。 私達からすれば ? なのですが。