発災から数日ほど経った頃のある日 (1月22日?) の朝、奥さんの体の具合が悪くなったのでどこか診てくれるところはないかと旦那さんが車に乗せて阪基までやってきました。
司令部には呉衛生隊をメインとする医療班がおり、これは主として海自派遣隊員の健康管理などが対象でしたし、震災による直接の怪我人や病人ではありませんが、急患で来られたからにはと早速医官が診察しました。
その医官の言では、心筋梗塞の疑いがありかつ妊婦さんで、至急施設が整った大きな病院に入院させる必要があるとのこと。
そこで、急遽阪基のすぐ沖に錨泊中の護衛艦 「せとぎり」 から予め待機を指示していた搭載HSを呼び、医療班のメンバーと一緒に阪基のヘリポートから病院最寄りのヘリポートまで運び、そこから手配の救急車で病院へ。
その後は病院などからは連絡もありませんでしたが、母子共に元気であったであろうことを今でも祈るばかりです。
(もしこの時のお腹のお子さんが無事に産まれていたとすると、今ではもう27歳に。 結婚して子供がいてもおかしくはないですね。)
ところでこの海自災害派遣部隊司令部の医療班ですが、発災の時に呉衛生隊長 (当時は未だ呉病院は有りませんでした) が、先に緊急出港させた38護衛隊 (とかち) と輸送艇の 「ゆら」 に続いて、22護衛隊2隻もその日からの4年毎 (当時、現在は5年毎) の定期検査・特別修理を取り止め後日に延期して神戸に応援に出す予定であることを聞きつけ、私のところへやって来て 「医療班と取り敢えずの医療品・機材を準備しましたので是非乗せていって下さい」 と。
この時私は神戸の状況の情報収集や派遣する艦艇などのことでバタバタしていましたので、ここまではとても頭が回りませんで、その申し出に 「それは助かる、ありがとう。 もちろん是非とも。 すぐに22護隊に指示するので」 と答えるのが精一杯。
結果的に、阪基で司令部や海自派遣隊員の健康管理、そして必要に応じた被災者の怪我の手当てなどに大活躍してくれました。
( かく言う私も、震災による液状化現象が乾いた後に舞い上がる細かな砂埃が半壊した庁舎のあらゆる隙間から入り込んでこれで喉を痛めて風邪を引いてしまい、2度注射や点滴などでお世話になりました。)
この医療班の編成と派出の気を利かせてくれた呉衛生隊長は、防衛医大1期生の医官として大変優秀な人物で、その後1選抜で1佐に昇任した (させた) ものの、こともあろうか当時の防衛医大の学校長自身により、さる県の大きな病院の部長職に引き抜かれて退職してしまいました。
私もその優秀さと優れた人格に前から目を付けて今後を期待していたのですが、本人にしてみれば自衛隊の医官としてよりは医学博士としての自分の将来を考えてのことでしょうし、残念ながら防衛医大の “普通のお医者さん” である教授陣 (自衛隊医官では無いし、医官ではなれない) にしてみれば、学生の頃から目をかけていた教え子を、高給を貰いながら学費などタダの4年間の研究科を終えて医学博士号取得後に (当然学費返還の対象となる義務年限の9年は既に過ぎております) 自分の顔の効くところへ引き抜くのは当たり前の様に行われていましたので (現在でも?)、これは私達自衛官にしてみれば何ともし難いことでした。
それにしても防衛医大というところは ・・・・ ではありますが。
(続く)
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非常に効率的な院内のコロナ対策、説明な丁寧、厳しい?!中性脂肪低減へのお小言?助言。さすがだと思いました。
防衛医大本科学生及びその卒業生には優秀な人が沢山いるのですが、問題は防衛医大を所管する防衛省そのものの問題ですね。
御祖父様はお気のどくなことでしたね。 当時現地に派遣されたものとしても、ご冥福をお祈りいたします。