2022年12月04日

術科史の無い海上自衛隊


やれ創設70周年記念の国際観艦式だとか何だとか騒いでいますが、その海上自衛隊には未だに各術科についての 「術科史」 が (さえ) ありません。

「術科」 といいますのは、海上自衛隊の現場における職種の専門的事項を言い、砲術、水雷術、航海術、機関術、etc. etc. に区分したもののことです。

まあ、“自分で自分の足跡を消しながら前に進むところ” と言われるほどですから ・・・・・

しかしながら、本当にこれで良いのでしょうか ?

国民の血税を使いながら、70年間何をしてきたのかをその国民に全く示さない。 それどころか、自分達の後輩にさえキチンと残し、伝えていくことをしてきていない。 全くおかしな組織です。

これでどこが “制服を着た能吏” の高級幹部達が二言目には口にする 「伝統の継承」 なのかと。

私は 「鉄砲屋」 の末席に連なる者の一人と自負してきていますが、現役の間に一度もこの術科史を作成しようという話しは聞いたことがありませんでした。

それが必要であると認識し、作成する意図がある、あるいは作成せよと隷下部隊に指示があった、などいうことは一度もありませんでした。

最近になって、本質的に海上自衛隊とは何の繋がりも無い 「水交会」 なるところが、この術科の幾つかについて 『海上自衛隊 苦心の足跡』 という形のものを全7巻で出しました。

もちろんこれは、現役の時に当事者だった各術科のOB達などによる、いわば個人的な回想話を集めた “回想集” に過ぎませんで、とてもではありませんが 「術科史」 たりえません。

本紙たる 「術科史」 があってこそ始めてこの回想集がその裏付け・補填として役に立つ、というものです。

しかしながら、海上自衛隊に “制服を着た能吏” として居座ってきた高級幹部達が、OB会ではない 「水交会」 の会長や理事と称する職にタライ回しで順に就き、この回想集をもって自己満足的にお茶を濁しているに過ぎない、というのが現状です。


では、創設期以来の各種史料を残すことをキチンとしてこなかった海上自衛隊が、今このご時世になって今更 「術科史」 を作ることができるのでしょうか?

私は不完全ながらも今ならまだなんとか可能であろうと思っています。

もちろん、例えば砲術についてはこれまでこのブログや本家サイトでご紹介してきた史料・資料などがまだ残されているとして、です。

そして、その 「術科史」 を纏めるにあたってその基本・基礎となる 「術科年報」 が最初のものから全て残されているとして、です。

この 「術科年報」 は、例えば砲術では昭和31年に海上幕僚監部の防衛部でその最初の 「砲術年報」 が作られ、その後これの作成担当は第1術科学校となりました。

Gunnery_Year_S01_cover_c.jpg

毎年同校の砲術科が編纂し、同校各科の他の年報も合わせて研究部が纏めて発刊、海上自衛隊各部に配布しています。

「体育年報」 などは普通文書ですが、他の年報はその内容により取扱・秘密区分が指定されます。 砲術年報や水雷年報などはもちろん発刊時は 「秘」 です。

砲術年報にどのようなものが記載されるのかなどの概要は、以前本家サイトでご紹介したところです。

     http://navgunschl.sakura.ne.jp/omoi/omoi_006-2.html

これの記載項目は昭和31年当時からほぼ同じように継承しており、これはおそらく今でも変わっていないはずです。 (変わってしまっては意味がありませんので)

これに既にご紹介してきた様々な史料・資料、それに私は探し切れなかったまだ他に残されているであろうものなどで肉付けをしていけば、少なくとも昭和年代のものは書けると考えます。

ただ、海上自衛隊では既に破棄・処分して残されていないと公言しているものも多いのですが ・・・・

posted by 桜と錨 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと
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