2020年12月09日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (21)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

性 善

この戦闘における米駆逐艦の砲雷撃や煙幕展張等、目ざましい働きは敵ながらまことにあっぱれであり、また艦尾は既に水につかった状態にも拘らず、前部ではなおも砲塔を動かそうとしているかに見えた駆逐艦乗員の闘志には、胸を打たれるものがあった。

さてその駆逐艦のすぐそばを高速で通りぬけて行った時に、私は本艦もまた我が隊の各艦も、最早戦闘不能になった彼等乗員を撃たなければいいがと念じたもので、これは前記したように、かつて 「ガ」 島撤退作戦時、ゴム筏に乗って漂流中の米パイロットに対しても同様の気持を持ったし、またこの日の戦闘中に視界内に着水し、撃墜されたパイロットを救出していた敵飛行艇に対してもこれを攻撃する心境にはならなかったことを考えても、戦闘状態にない敵に対するこのような自然の心情は、人間の性の本来善なる一面の表れではなかろうかと後年思った。

しかし反面、捕虜斬殺等の話も聞いているので私は敵愾心が不足していたのかとも思ったり、あるいはちょっとした環境や立場の相違で人間の気持はどのようにも変わるものかと思ったりするが、やはり前者のような性善の方が人間本来のありのままの心情ではないかと思い、戦争といえどもそれでいいのではなかろうかと私は思う。

そしてこのため必要なときの敢闘精神に欠けるようなこともなかろうと思っている。 もちろん御批判はあろう。


反 転

さてこの時栗田長官直率部隊の、レイテを目の前にした敵前反転ほど戦後論議されたことはなく、当時の艦隊乗員の中にもこれを不満とする者が多かったようにも言われているが、戦局の大勢を知らない若輩の私などは反転北上して敵機動部隊に向かうと知った時は、何となく心の隅に残っていたレイテの船団相手かという凝りがとれ、今度こそ本当にやり甲斐のある戦闘ができるかという気持を持ったように思う。

なおこの日も重巡 「熊野」 被雷、「鈴谷」 沈没、そして 「筑摩」 が被弾したが、うち 「筑摩」 に対しては我が後方を続行中の 「野分」 が救助に派遣された。

しかし同艦は 「筑摩」 の乗員を救助し1隻のみ遅れて帰投中、北方より駆け付けた米戦艦部隊に叩かれ、全員戦死したと聞いている。


ところでちょっと横道にそれるが、この 「野分」 の沈没により、私が18年初頭十七駆逐隊に着任した時、第十戦隊を編成していた16隻の精鋭駆逐艦 (「陽炎」 型12隻、「夕雲」 型4隻) は、我が隊の4隻 (ただし 「谷風」 沈没、「雪風」 編入) と損傷を受けて離隊した 「天津風」 との5隻を残し、他は全部沈没したこととなった。


さて反転北上したものの、敵機動部隊とは遭遇できず、燃料の懸念もあって当夜再びサンベルナンジノ水道を入って行った。 そして、正直に言って、この時 「これでまた生きて帰れるのかな」 とふと思ったものである。

なお翌26日シブヤン海において又々空襲を受け第二水雷戦隊旗艦の 「能代」 も沈没、その他にも損傷艦が出た。


ブルネイ帰投

この日をもって一応戦闘も終了し、駆逐艦の大部は燃料補給のため分離してコロンに回航、本艦及び 「雪風」 が残ったが、27日新南群島 (南沙諸島、スプラトリー諸島) 北東口において、本艦も 「長門」 から横曳補給で油を貰った。 (当時のメモには速力12ノット、速力差赤3、針路交角外方3/4度と書いてある。) この時の給油時間は2時間近くかかったように思うが、緊張の連続に加え、連日の戦闘による疲労が出たのか、終わった時は急に力が抜けたような感じがした。


(参考) : 「コロン」 はパラワン諸島北部のブスアンガ島及びクリオン島、コロン島などで囲まれるコロン湾のことで、旧海軍艦艇の作業・補給基地の一つでした。 捷号作戦においても特設運送船の給油船 「日栄丸」 をここに前進待機として派出しておき、駆逐艦などのブルネイ帰投までの燃料補給を行っております。

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( コロン湾の位置関係 Google Earth より加工 )

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( コロン湾 1966年版の米国防地図局の地図より加工 )


なお終了時 「長門」 の兄部艦長 (勇次 大佐、10月15日少将 兵45期) から本艦々長に 「操艦法見事なり」 との信号をいただいたが、終始艦橋張出しに立って見ておられた同艦長の姿が今も険に浮かび、またこのような時の大艦々長の思いやりは、小艦乗員にとって一入心に泌みるものがあったことを思い出す。


(備考) :  新南群島 (南沙諸島) 近傍における戦艦から駆逐艦への燃料補給においては、『第一遊撃部隊戦闘詳報』 や 『第十戦隊戦闘詳報』 などでは 「長門」 → 「雪風」、「榛名」 → 「磯風」 となっていますが、当の 「磯風」 航海長であった著者の回想では上記のとおり 「長門」 → 「磯風」 とされています。

なお、大艦から小艦への燃料補給については、リンガ在泊の訓練項目の一つとして取り上げられており、昼夜間での実施に自信を持っていたとされています。

旧海軍における洋上給油の方法には縦曳き給油と横曳き給油の2つの方法があり、そのうちの横曳き給油の一例として下図に給油艦対軽巡の場合を示しますが、これ以外の艦種同士でも基本的には同じ要領です。

補給側と受給側の艦首間に錨鎖とワイヤーを繋いだ 「前索」 を取りますが、これは受給艦側が直進する補給艦との対艦距離と横並びでの前後の位置を保ち易くするためのもので、これによって補給艦が受給艦を “曳航” するためのものではありません。

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さて一週間前、あれほどの大部隊が出撃して行ったのに、28日夜一緒にブルネイに帰投した艦は、戦艦 「大和」 「長門」 「金剛」 「榛名」、重巡 「利根」 「羽黒」、軽巡 「矢矧」、駆逐艦 「雪風」 及び本艦の計9隻であり、損傷艦及びその警戒に分派された艦や燃料補給に行って遅れて入港した艦を加えると計18隻であった。 しかも駆逐艦2〜3隻を除きすべて中・小破の状態で、正に刀折れ矢尽きたとでも形容できよう。

思えば戦闘の全期間を通じ、折にふれ闘志をかきたててはきたが、シブヤン海上での空襲の合間には、これだけの敵機がやってくるのに我が味方機は1機もいないのかとの思いがふと心をよぎったものであり、航空機の援護下にない水上部隊の無力さを嫌というほど昧わわされた数日であったと言えよう。


それにしても本作戦における栗田長官に対する世の批判はまことに厳しい。 もちろんあとから批判すれば非難される点はあろう。 しかし長官とても人間である。 錯誤もあったろうし、判断の誤りもあったろう。 ましてやあのような長期の戦闘で心身の疲労の加わった状況下においてはなお更のことである。

次々に多くの魔下艦船と部下将兵を失いつつも、残存艦隊の指揮を続けられた長官の御心痛は、想像を絶するものがあったことと拝察、麾下乗員の1人としてただただ心から御慰労の言葉を捧げたい。


(備考) : サマール島沖海戦も含めた捷号作戦については、現在に至るまで戦後に 『戦史叢書』 を始めとして様々な文献が出されておりますが、その一方では、防衛研究所などに当時の各部隊・艦艇の戦時日誌や戦闘詳報などの多くの記録が残されており、アジ歴でも公開されております。

しかしながら、当時の状況についてはまだまだ世に出てきていないものもいくつもあり(例えば、某司令部参謀の戦後の証言など)、結局のところ日本側の記録としてはいまだに “これだ” という正確な確たるものが無いのもまた事実です。

とは言っても、当時の戦時日誌や戦闘詳報の類は戦史研究上の基本史料として押さえておく価値は十分にあるものと考えます。


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(続く)

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