2020年12月07日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (19)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

「赤々」・「青々」

ブルネイ出撃の翌23日早朝、パラワン水道において敵潜水艦の雷撃により栗田長官の旗艦 「愛宕」 及び同じ第四戦隊の重巡 「摩耶」 が沈没、「高雄」 が大破する被害を受けた。 早くも旗艦変更を余儀なくされた長官や参謀長の御心境は如何ばかりであったろう。

その後は潜望鏡の発見信号が揚げられたり、続く「青々計7」 (緊急右70度一斉回頭) の信号で緊急回避をしたりして、各艦見張員にいたるまで異様な緊張が続いた。

さてこの「青々」 (緊急右45度一斉回頭) とか 「赤々」 (緊急左45度一斉回頭) はこれだけならまず大したことはないとして、このあとに 「計7」 (計数ななと読み70度の意) や 「計9」 (計数ここのつと読み90度の意) がつくと極めて困乱を起こしやすい運動となり、後の方の艦や遠い艦は特に計数以下を見落としがちであるし、また次々に発動も遅れるので危険な状態を引き起こしがちなものである。

幸いこのときは昼間であり、付近の艦の運動がよく見えたので危険になることはなかったが、例のミッドウェイ海戦の際、第七戦隊の4番艦 「最上」 が3番艦 「三隈」 の左舷に衝突したときは、敵浮上潜水艦の発見によって 「赤々」 を2度やったとかあるいは「計9」をつけたとか、また、信号でやったり電話でやったり、ということで旗艦の方は左90度までの緊急一斉回頭のつもりであったのを、「最上」 の方は左45度に解しており、また、齋藤自衛艦隊司令官 (國二郎 兵70期 ミッドウェー当時少尉候補生として七戦隊旗艦 (1番艦) 「熊野」 乗組) が書いておられるような状況とか、種々錯誤はあっても、あとからの無責任な批判をお許し頂くとすれば、各艦艦橋にはベテランの艦長も航海長も当直士官も、そして多くの優れた見張員もおられ、臨機応変の適切な処置がとられるはずであったろうに ・・・・。


夜間の高速編隊航行中、敵潜水艦を発見して注意を奪われているような状況下では、当時の七戦隊ほどの高練度隊でもあのような事故が起きている。 訓練のときと、実際の戦闘場面とでは心理状態が違っているのが一般と考えるべきであろうし、「左警戒右見張」 とあれほどやかましくいわれ、誰もが注意しているつもりであっても、いざとなると中々である。 戦場における一般的な心理状態としても、心に留めておくべきではなかろうか。


シブヤン海における空襲

10月24日のシブヤン海での空襲による戦闘状況についても多くの本に書かれているとおりであり、私ども小艦の方は初めは概ね大艦に集中攻撃するのをチラチラッと見る余裕もあったが、そのうち損傷艦も出始めると小艦を攻撃するものも多くなり、艦長を補佐して必死の回避運動をやった。

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( シブヤン海で米軍機の空襲を受ける「武蔵」 )

ところで駆逐艦のような運動性能の良い小艦であっても、続けさまに急降下してくると、2機までは何とかかわせても、3機目の爆弾の当たる当たらないは運だという感じを私は持った。

申すまでもなく、艦には回頭惰力があるので、引き続いての急降下機に対しては、間に合わない場合の出てくるのは当然と思う。

したがって、よく何十機の爆撃を回避したと言われるのは、もちろん艦長の抜群の技量があったろうが、次の急降下機との問に回避できる時間的間隔があったわけでもあり、また計り知れないその艦の運もあったものと思わざるを得ない。

それにしても前記ミッドウェイ海戦時の 「谷風」 の見事な回避ぶりが偲ばれるが、人間技をこえたものとしか言いようはあるまい。

なおこのとき本艦に、続いて急降下してきた3機目の爆弾が、面舵一杯から取舵一杯にして丁度回頭が止まった時に、艦首の右舷至近距離に落下し、胸をなでおろしたその時の光景が今なお瞼に残る。

何ぶん駆逐艦は小型爆弾1発でも命取りにならないとは限らないので、運動性能が良いからといっても、2発や3発当たっても悠然としている大艦に比べて、それほど有利とは言えない面もある。

なお言うまでもないことであるが、回避にあたっては、大転舵による艦の傾斜のため、射撃効果の減殺も考えねばならない。 最大戦速時、一杯転舵中に続けて反対舵を一杯とると艦の傾斜は大きく、そのまま立ってはおれないくらいになるし、主砲の射撃精度は著しく低下するので、大事なときに気が気でなく、状況を見ながら適宜舵角の修正もやった。特に燃料も少なくなって重心が上がってきたときの傾斜は物凄い。

なおこれだけの大部隊になると、味方艦の対空砲弾の破片がバラバラ落ちてきて危ないなと思ったが、これは事前には考えていなかったことで泡を食った。


(参考) : 捷号作戦時の対空戦については、昭和20年2月に横須賀海軍砲術学校が纏めた 『比島沖海戦並ニ其ノ前後ニ於ケル砲戦戦訓速報 其ノ二 (対空砲戦之部) 』 にシブヤン海での戦闘も含めたものが残されています。 ただし、同じものは防衛研究所にも収蔵されているようですが、現在のところアジ歴ではまだ公開されておりません。

Hitouoki_Air_S20_cover_s.jpg


(続く)

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次 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (20)
     http://navgunschl.sblo.jp/article/188181697.html
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     http://navgunschl.sblo.jp/article/188181582.html

この記事へのコメント
青々の部分は戦藻録に書かれていたのは覚えていましたが、青々計7の部分は初めて知りました。

青々は斉動信号灯で知らせたと思うのですが、計7の部分は信号旗を旗旒させていたのでしょうか...?
Posted by 劔 at 2020年12月08日 22:52
劔さん

緊急斉動は 『海軍信号規程』 及び 『艦隊運動程式』 (一部は戦史叢書にも抜粋あり) により、夜間の場合は信号灯又は電話によりますが、信号灯には計数を表すものはありません。 従いまして 「青青計7」 などを下令する場合には電話による方法になります。

ただし、ミッドウェー海戦における 「三隈」 と 「最上」 の衝突事案については、肝心なこの時の第七戦隊の戦時日誌や戦闘詳報でさえ (何故か) 残されておりませんので、実際の状況は不明ですが、関係者の証言などを合わせて考えると、信号灯と電話との二重の下令が錯誤の主因とするのが一番正しいようですね。

Posted by 桜と錨 at 2020年12月09日 12:35
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