2020年12月05日

回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (17)


伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

第二戦隊の護衛

9月になって、ある日 (11日) 夕刻、我が隊が訓練を終えて錨地につくと突然旗艦 (軽巡 「矢矧」) からの信号で、第十七駆逐隊司令は第十七駆逐隊及び 「若月」 (当時同じ十戦隊所属の防空駆逐艦の1隻) を率い準備でき次第出港、内地に帰投のうえ第二戦隊 (「山城」 「扶桑」) を護衛してリンガに進出せよ、という意味の命令を受けた。(機動部隊電令作第48号に基づく第十戦隊電令第153号)

全くこのような行動は当時いとも簡単に命令されていた。


(参考) : 第17駆逐隊の呉回航と第二戦隊の護衛については 『第十七駆逐隊戦時日誌 昭和19年9月分』 を参照して下さい。 なおこれと同じものが現在ではアジ歴のレファレンス・コード : C08030146500 でも公開されています。

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なお旧駆逐隊には現在の護衛隊々付のようなデッキの幹部の配置はなく、司令駆逐艦の航海長及び通信士が補佐していたので、今から準備でき次第となると各艦の燃料補給が終わるまでに航海計画を立てねばならないこととなるが、それにはまず今までに受信だけしてためていた敵潜情報の記入から始めなければならなかったので、早速通信士 (宮田實 通信士兼航海士 兵72期 少尉、19年9月15日中尉昇任) と一緒に海図に入れてみると、大げさに言ってこれらを全部避けて通るとすれば、通るところがないと思えるほどの敵潜の配備状況であった。

各艦の出港準備完了までに、差当たり必要な一部のコースを発光で送り、水道を通るまでには夜が明けてくれればいいがと思いながら、夜半過ぎに泊地を出港していった。

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( 17躯隊の概略行動図 同隊戦時日誌19年9月分より加工 )


ただし、この航海は久しぶりに駆逐艦のみの部隊であり、しかも本艦は司令乗艦のため之字運動も基準艦であったので、艦位を入れるのが最大の仕事ぐらいで気楽な航海であった。

しかし本当は駆逐艦は先の 「谷風」 のように魚雷一発で轟沈と思ってまずまちがいないのだから気を弛めることはできなかったのに、やられたらやられた時のことよと、敵潜の多い中を通るというのに当直と天測と食事の時以外はひたすら寝ていたのが実情であった。

なお戦時中全期間を通じ、航海当直に起こされる時の眠かったことは今以て忘れ得ない。どうしてあれほど眠かったのだろうと不思議に思うが、睡眠時間が細切れであり、十分でないうえに、暑さで熟睡できなかった点もあったかと思う。

途中無事に呉に帰投し、在泊は3〜4日あったろうか。 この時、内地に居残ることになった 「若月」 の石川 (査平) 航海長が送別のクラス会を開いてくれた。

彼の艦とは、リンガでの訓練時委員の交換等で行ったりきたりしていたので、自分だけ残ることを申し訳ながり、私の武運を祈ってくれたが、同艦はその後比島沖海戦に小沢部隊で参加し、ついでオルモック方面に出撃して沈没、彼も戦死した。 やはり 「人間万事塞翁が馬」 である。


さて、今度は十七駆逐隊のみの4隻で第二戦隊を護衛し、途中安下庄 (屋代島南側、明治期からの艦隊作業地の一つ) に1泊の後、豊後水道を出撃した。

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( 安下庄湾の位置 Google Earth より加工 )

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( 海図 No.142 昭和23年版より 安下庄湾 )

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( 関重忠機関中監 (当時) の明治35年オリジナル・アルバム 『海軍揚輝』 より 朝霧の安下庄に停泊する 「笠置」 と 「高砂」 )


(参考) : 上の写真と同じものは、福井静夫編 『海軍艦艇史2 巡洋艦・コルベット』(K.K ベストセラーズ) では撮影場所不明の 「千歳」 と 「高砂」 とされていますが、撮影者たる関重忠氏自身の手になるアルバムで 「安下庄の朝霧 笠置、高砂」 と毛筆で手書きされております。 また撮影時期は明示されていませんが、同アルバムの他の写真及び船体塗色から明治33〜34年と推測されます。

なお、関重忠氏のオリジナル・アルバム 『海軍揚輝』 は本家サイトにて既に公開中です。




昔も艦隊の出撃となると、駆逐艦の方はいつも出撃前の対潜掃討を実施していたもので、夜間、四国寄りの掃海水道を通り、沖の島と蒲葵 (びろう) 島の間から出ていったが、レーダーのないときの夜間無燈火での掃海水道通過もやはり神経を使った。

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( 蒲葵島の位置関係 Google Earth より加工

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( 海図 No.151 昭和36年版より 蒲葵島 )

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( 佐伯防備隊戦時日誌昭和19年9月分の豊後水道防備要図より加工 赤線が東側掃海水道 )


このときも途中敵潜水艦には遭わず、無事に二戦隊の両艦をセレター軍港に送り届け、我が隊は即時リンガに帰投した。

なおこの両艦とも約1か月後にはスリガオ海峡突入で西村司令官及び両艦艦長以下乗員のほとんどが艦と運命をともにされた。

(続く)

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