伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)

( 最も著名な 「大鳳」 の写真 昭和19年5月タウイタウイ在泊中の姿 )
Z旗一流
6月19日朝、いよいよ攻撃隊の発進にあたり、右正横を並んで驀進中の旗艦 「大鳳」 のメインマストに高々と戦闘旗が輌えり、その両舷ヤードにZ旗が掲げられた。
信号員も 「Z旗一旒」 と届けたが、実際は当時の信号書にはZ旗一旒の信号はなく、日本海々戦時のZ旗と同意味の信号は 「L4C」 と規定されていることを記憶していた私は、(「L4C」 は当時旗旒信号教練C法の問題にしばしば用いられていたため) かえって一瞬とまどいを感じたものの、すぐに日本海々戦時の故事が頭に浮かび、これにならったものと納得できたわけで、艦橋内もしばし寂として声なく、この時の胸を締めつけられるような感激や光景を忘れることはできない。
なお前大戦中、Z旗の掲揚は真珠湾攻撃時に続きこれが2度目であった由。
敵潜水艦に突入
「大鳳」 艦上から飛び立った攻撃隊は次々に編隊を組んでは遠ざかって行ったが、最後になって1機のみ反転旋回したのが同艦の右前方海中に突っ込んでいった。
私どもはてっきり事故かと思っていたが、実はその時、潜航中の敵潜水艦を目がけて急降下し海中に突入していったとのことであり、搭乗員は小松 (幸男) 兵曹長ということであった。
しかし不幸にもしばらくして 「大鳳」 は艦橋の右前に被雷した。 やはりこのようなときは、各艦とも、飛び立って行く飛行機に目を奪われ、他に手抜かりができていたものかと思う。
「大鳳」 艦長
午後、遂に 「大鳳」 は爆発炎上、総員退去となったので、本艦は艦首を同艦の右艦尾に着け、道板を渡して乗員を移乗した。
なおこの時あのような沈没間近い炎上中の艦に接舷するには、司令・艦長にとって相当な勇気を必要としたものと思う。
さて同艦後甲板に降りてこられた艦長菊地大佐 (朝三 兵45期) は乗員の勧めもきかれず、どうしても乗り移ってこられない。
他の乗員が移乗し終わったところで、独り残られた艦長は、本艦に早く離せと手でしきりに合図されるので、やむなく後進で離れていったが、そのまま後甲板で手を振っておられた艦長がしばらくして付近に散乱していた紐らしきものを拾い、体に縛りつけておられるのを眼鏡で見たときは、何かジーンと胸に込み上げてくるものを感じた。
同艦はその後間もなく大爆発を起こしやがて沈んでいったが、すぐにまた海中で大爆発を起こした。
なお艦長はその後他の駆逐艦に救助された由。 何かの衝撃で紐が切れ、浮かび上がられたものであろう。
(補記) : 日本版ウィキペディアなどでは 「大鳳」 艦長の菊池大佐は 「磯風」 に救助されたこととなっていますが、当の 「磯風」 航海長として戦闘配置の艦橋にあった著者伊藤茂氏は上記の通り 「その後他の駆逐艦に救助された」 とされております。
前大戦中、艦と運命を共にしようとしても果たされなかった何人かの戦艦や空母の艦長がおられるが、人の運命は自分の意志ではどうすることもできないものがあることをしみじみ思う。
艦と運命を共にされた司令官・艦長にはもちろんのこと、事志と違い生き残られた艦長に対しても心からの敬意を表するものである。
翌20日の戦闘も終わり夕闇の中で、折角帰投しながら着艦できる母艦がおらず、やむなく海上に不時着した飛行機の搭乗員を救助し、燃料不足のため経済速力で1隻だけ遅れて6月22日、中城湾 (沖縄) に入港したが、今や 「大鳳」 「翔鶴」 「飛鷹」 の姿はなく、損傷艦の 「隼鷹」 を初め既に帰投停泊中の各艦の間を縫いながら泊地の奥に入って行ったときも感慨一入のものがあった。
艦隊はここから内地に帰投、6月24日夜半、本艦は柱島泊地に投錨した。
(続く)
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人間としての性のようなものですが、海軍の場合は直ちに艦船兵器や人員の損失に繋がりますので、日頃から強く戒められてきているところです。 が、それでも、ですね。