伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
航海長教育
さて航海長に発令されたからには、やはり大任を自覚し、心を新たに、大いに奮起し、まずは新任航海長教育に参加、いろいろと御指導をいただいた。
なお当時、駆逐艦では通信士勤務を大体半年やると、待ちかねたように副直将校から当直将校に昇格させられていたが、私も既に約半年、航海中の哨戒長勤務に就いていたし、天測もまず心配はなくなっていたので、割合気楽に講習に参加し、クラスの諸兄に会えるのも楽しみであった。
さてこのとき 「大和」 において指導官たる同艦航海長 (津田弘明 大佐 兵51期) が六分儀が重くなった関係で、ガブる艦上ではまず持ち方からしっかりさせなければ駄目だと言われ、自分で考えられた持ち方を教えて下さったが、海軍大佐の航海長がこのような細かいことまで真剣に考えておられるのかと驚かされた。
しかし当時私は、既に1年余自己流の持ち方で何ら支障があるとも思わずやってきたので、それに馴れ、今更といささか抵抗を覚えたが、あとになって、やはり教えられたように換えてよかったと思った。
「あ」号作戦
タウイタウイに集結
昭和19年5月、「あ」 号作戦の準備が開始され、リンガ泊地で訓練中の 「大鳳」「翔鶴」等の第一航空戦隊を含む艦隊は、5月15日ボルネオの北東部にあるタウイタウイ島に進出し、その翌日には内地からも第二航空戦隊及び第三航空戦隊が、先般の被雷箇所の修理を終えた 「武蔵」 などと一緒に入港してきたので、空母9隻を含む戦艦・巡洋艦及び駆逐艦からなる第一機動艦隊の大部隊は環礁内を埋め、まことに壮観であった。

( タウイタウイ島の位置関係 Google Earth より加工 )

( タウイタウイ泊地 Google Eath より加工 )
しかし間もなくこの環礁付近は敵潜水艦の蝟集するところとなり、駆逐艦で対潜掃討部隊を編成、我々の隊も何回か環礁外に出ていたが、ここの入港には全く苦労させられた。
昼間は、ボンガオピーク (Bongao Island の Visia 山 (1631ft) の南西側 ) という顕著な山を割合遠くから目標にして近づくことができたが、夜間となるとそれもできず、位置の入りにくい、そして潮流の速い、しかも珊瑚礁の浅瀬の多い狭水道の夜間通狭は全く寿命の縮まる思いであった。

( 6月15日タウイタウイ泊地より出撃する第一機動艦隊 背景の赤丸位置がボンガオ・ピーク 南西側から見ると尖って見えます )
「谷風」 沈没
これより先、米海軍は潜水艦に対し 「日本の駆逐艦を狙え」 との指示が出されていたとのことで、比島・ボルネオ付近海域でも4月以降、「秋雲」 「刈萱」 「電」 が被雷沈没し、特に6月になってからは6日に 「水無月」、7日に 「早波」、8日に 「風雲」と、続いて撃沈され、更に9日夜半には、当隊司令指揮のもとに 「磯風」 「谷風」、及び第二水雷戦隊の 「島風」 「早霜」 をもって対潜掃討を実施中、本艦の左正横において 「谷風」 が被雷し、暗夜に大火焔が立ちのぼった(米潜ハーダー USS Harder SS-257、4本発射し2本命中)。
たまたま私は立直中であったため、直ちに眼鏡で同艦を見たところ、火柱がサーッと消えたあとには既に艦影はなかった。 正に轟沈と言える。
暫く12ノットの探知速力で捜索を実施した後、生存者の救助に当たったが、沈没後 「谷風」 は自艦の爆雷 (安全針が抜いてあった) の爆発による水圧が漂流者の肛門から入ってほとんど腸をやられ、折角救助された者も比島の病院で大方戦死された。
なおここで 「谷風」 について補足すると、同艦はその半年前のミッドウェイ海戦において、空母 「飛竜」 の救助を命ぜられ1隻で引き返して行った際、敵艦載機30数機に加え、大型機約20機の来襲を受け、これを一手に引き受けて孤艦よく奮戦したもので、その見事な回避は私などの想像を絶するものであり、ただただ驚嘆の外なく、それこそ本当に神技としか言い得ないものであったと思われる。
このため他の味方部隊では敵機の空襲を受けることなく、駆逐艦に救助していた沈没空母の乗員を無事に大艦に移乗し得たとのことであり、その功績を称えられたものであった。
なお、この勝見艦長 (基 中佐 兵49期) はその後旬日を出ないうちに「ガ」島撤退作戦中、敵機の機銃掃射により戦死 (戦死後大佐) されており、惜しみて余りある人であったし、また艦であった。
(続く)
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管理人の桜と錨です。 コメントをありがとうございます。
当該連載は、管理人が現職時代から我が師と仰いできた伊藤茂氏が昔海上自衛隊の部内誌に投稿されたものですが、そのまま世に知られずに埋もれてしまうことを危惧してご紹介しております。
http://navgunschl.sblo.jp/article/187568446.html
しかしながら、残念なことに伊藤茂氏は昨年暮れにお亡くなりになってしまいました。
http://navgunschl.sblo.jp/article/188029227.html
私も氏のご存命中に一度お目にかかって色々とお話をお聞きしたいと思っておりましたが、遂にその機会を得ないままとなりました。
氏の連載にも紹介されております津田弘明氏については、旧海軍における航海術の権威として知られており、私も伊藤氏からお話をお伺いできればと思っていましたが、それも残念ながら実現しないことに。
津田弘明氏については、お調いただいた中で、もし可能なことがございましたら是非ご紹介下さるようにお願いいたします。
ブログを最初から確認せずに書き込んでしまい申し訳ありませんでした。また、伊藤様が亡くなられていたとは…とても残念ですが、管理人様がブログで継承してくださってとても感謝しています。他のネット情報で坊ノ岬への出航前、弘明氏が大和を降りることになり引継ぎを半日で通常は済むところを1週間かけて引き継いだと記録を読みました。どうして時間をかけたのかずっと気になっていましたので、航海術の権威であったのであれば、伝えることがたくさんあったのかもしれないと思いました。私が調べたといっても大した情報ではないのですが、また何かあればお伝えしたいと思います。この情報も親族に伝えたいと思います。貴重な情報をありがとうございます。