伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
リンガ泊地
リンガはシンガポールの南約90マイルの赤道直下にある広々とした泊地で、暑い所ではあったが、当時最も貴重な燃料が十分に使えたことから、艦隊の泊地としては最適であったので、ここで大いに訓練することとなった。

( リンガ泊地 Google Earth より加工 )

( 戦史叢書 『海軍捷号作戦 <1> 』 より加工 )
なお4月初め、内地から新造空母の 「大鳳」 が進出してきたため本艦は同艦の後方を続行し、発着艦時失敗して海中に墜落した搭乗員の救助などを行ういわゆる 「トンボ」 釣りに従事した。
なおこの頃 「雪風」 が第十六駆逐隊の解隊により第十七駆逐隊に編入され当隊は5隻隊となった。 1隊に5隻とは他に例はなかったかと思う。
残 留
さて戦争のおかげで、私どものクラスも瞬く間に中尉に進級し (19年3月15日付)、また大量移動の時機ともなったので、昨年末以降の転入者を除き、最初から駆逐艦に乗っていたクラスの者は私のみを残して全員 (ほとんどが潜水学校学生として) 転勤することとなった。
私も卒業時、潜水艦熱望と出していたにも拘らず、ただ1人そのまま残されたことについては、別にこれといった理由も思い当たらないので、たまたまやりくりがつきにくく、若年士官の1人ぐらい意に介されてはいなかったのであろう。
しかしこのときはいささかがっかりした。 実のところ、当時内心では機会があればここらでちょっと内地に帰り、噂に聞く学校という気楽な所で気分転換をしたり、あるいは幾ばくもないかもしれない青春を謳歌したりすることができればという気特もないではなかった。
なおガ島以来折にふれ助け合ってきた級友諸兄もやはりチャンス到来の喜びを秘め、居残りの私にしきりに同情しながら別れを告げて行った。
さてその後私どものクラスは、19年4月、駆逐艦の航海長に発令され、私もこんどはブイツーブイよりまだ簡単にそのまま 「磯風」 航海長兼第三分隊長 (4月15日付) になった。
ところで、この頃の転勤は人によって様々で、行く先々で乗るべき艦がおらず、回り回っているうちに乗艦予定の艦が沈没し転勤旅費をたんまり貰って旅行を楽しんだ人もあったようであり、反対に転勤発令になりながら後任者が未着のため退艦できないまま戦死した人もいたりした。
なおこのとき一緒に 「満潮」 航海長に発令されたクラスの渡辺 (譲) 中尉が4月下旬、同艦の入港を待ってシンガポールのセレター軍港に滞在中、たまたま本艦も同地に入港し、思いがけない邂逅(かいこう)を喜び合ったが、それから約1か月半たった6月10日、タウイタウイに入港し、燃料補給のため 「鶴見」 (タンカー) に横付けしたところ、またも便乗中の彼に会い、びっくりした。
責任のない気楽な毎日だったろうと思われたが、彼の方にはまた何かと苦労はあったらしく、同じ艦での成り上がりで一番てっとり早い私の転勤をしきりに羨ましがっていた。
なお彼はそのあと漸く同地で 「満潮」 に着任し、日ならずして 「あ」 号作戦に参加したわけで苦労しただろうと思う。
なお同艦はその後レイテ沖で沈没、彼も戦死した。 快男児だったのに残念でならない。
(続く)
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リンガ泊地は日本からも予想主戦場からも少し遠いのですが、艦砲射撃や空母の離発着訓練ができるほど大変に広く、かつ訓練用の油がふんだんに使えます。そして敵潜水艦や航空機の来襲の可能性が低く、そしてなによりもシンガポールに近く、ここの造修施設が使えますし、艦隊乗員の休養地としても便利でした。