伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
夜 戦
この頃私は戦場でも艦位を入れるのが主任務で一生懸命であったが、こちらからは全く敵影の見えない真っ暗な中で一方的にレーダー射撃を受け、発砲の瞬時砲焔がパッと見える時、敵の所在がわかるのみで、暫くすると艦の周囲に砲弾は落下するし、暗夜の海を夜光虫で光った雷跡も向かってくるしで、やはり当たらねばいいがという一種身の固くなるような思いが心をよぎっていた。
大した経験ではないが、その後を通じ、昼夜の砲戦や魚雷戦や艦載機の急降下、大型機の水平爆撃等一通り経験したところでは、何といっても全然見えない所からレーダー射撃でやられる夜間の砲戦が一番気味が悪かったと私は思っている。
艦 位
さて敵と交戦したときもあるいは敵影を見ないで引きあげるときも、夜明け前にはできるだけガ島を基地とする敵小型機の空襲圏外に出ておく必要があったので、ある暗夜、速やかに離脱するためチョイセル島とイサベル島の間 (マニング水道、Manning Str.) を抜けソロモン海を東側に出ようとして水道の入口にさしかかったとき、艦長 (神浦純也 少佐 兵53期) から 「通信士、位置はいいか」 と言われ、私はつい自信もないのに 「はい」 と言ってしまった。

(チョイセル島とイザベル島間のマニング水道 Google Earth より加工 )

(マニング水道 昭和43年版海図 No.830 より)
(参考) : 私の手持ちの海図にはこの縮尺のものしかありませんが、それでもこれを見て、水上レーダーは無く、満足な海図も整備されていなかった当時、暗夜の中をよく通狭したものと感心させられます。 両者が揃い、更には GPS や電子海図も使えるような現在において、平時であってさえも、特別な理由がない限りわざわざ通ろうとは思わないようなところです。
したがって引続き艦位は入れたが、当時の海図が小縮尺のものをただ部分的に引き伸ばしただけの薄刷りで大ざっぱなためもあり、暗闇の中ではなかなかうまく入らず、自信が持てるまでにどれだけヒヤヒヤしたことか、ちょっとの間ではあったが、ログの指示 (速力受信器の表示のこと) が落ちたときはドキッとした。
何ともなくてすんだからよかったものの、乗し揚げでもしていたらどうなっただろう。 このときつくづく自信もないのにいい加減なことは言うべきでないと肝に銘じさせられた。 なお特に海上では知らないことは絶対知らないで通さねばならないと思う。
この経験から私は海上自衛隊でも折にふれ若い諸官にこのことを強調してきたつもりである。
停泊勤務
昭和18年のこの頃も駆逐艦では、大艦のガンルーム士官に匹敵する者は通信士1人であったので、(艦によっては隊付の機関士か庶務主任の乗っている場合もあったが)、若年士官のやるべきこととなると嫌だとか好きだとかあるいは苦手だからなどと弁解の余地はなかった。
一行動終わってラバウルに帰投すると大抵2〜3日の整備・休養・補給期間があったので、その間一晩はいつも映画をやっていたが、陸上 (第八艦隊司令部) にフイルムを借りに行くのも通信士の仕事であり、演芸会の世話役やら保健行軍の指導官やら雑務はおおむね一手に引受け、ときには司令の伝言で一升ビンを持って陸上に届けたこともあった。
そのときアッパッパを着た日本人に違いないがと思われる女が出てきたので、おかしいな、このような前線にどうしてこんな女がいるのだろうかと不思議に思ったこともある。
もちろん雑用ばかりが通信士の仕事ではない。 旧海軍時代誰もが気を使った分隊事務があり、分隊員の叙位叙勲や善行章の計算等は、分隊長を懲罰にしないためにも、戦地であろうと絶対におろそかにはできず、また航泊日誌や諸記録の提出は現在と同様であるが、戦時なるがための毎月の戦時日誌と、戦闘のたびの戦闘詳報の作成発送があって、(これらは今考えてもなかなかの仕事であったと思う) どうしてこんなに何も彼も1人がやらねばならないのかと不満に思ったりしたが、やはり 「負けじ魂これぞ船乗り」 で弱音を吐くわけにはいかず、若さのおかげと、幸いにも字のうまい気の利いた信号の下士官が、日誌類の記註やガリ切り等、実によくやってくれたのとで、何とかやってこれたものと思う。
(続く)
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