伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
出 撃
18年7月、修理及び諸種の準備も完了し、いよいよ出撃となった。
今度は 「磯風」 は機動部隊から離れて外南洋部隊 (基地ラバウル) の増援部隊に入り、腰を据えてソロモン方面で働くことになった。
ところで、当時艦隊の駆逐艦はこの増援部隊に入れられることを内心好んでいなかったように思われる。 それはそこに入ると大抵やられるまで使われていたようで、無理からぬ心境であったかもしれない。
しかし、もちろん命ぜられたからには皆覚悟を決めてかかったのは当然である。 おそらく再び帰ることはあるまいと、平和そのものの内海の島々をながめながら、内地はいつまでもこのようであって欲しいとの願いをこめて別れを告げて出て行った。
弾も糧食も満載し、通路には一杯ビール箱を並べ、その上に道板を敷いて歩くようにしていた。 もっともこの箱もいつの間にかどこかへ処理されていた。
ソロモン
いつものコースでトラック島を経てラバウルに進出、そこから 「日進」 を護衛してブインに向かったところ、同地も間近くなって敵大型機の空襲を受け、樽酒その他弾薬、魚雷を満載していたという 「日進」 は瞬く間に沈没した。

( 水上機母艦 「日進」 の最も有名な艦影 昭和17年2月の公試運転時 )

( 空襲時の陣形 )
(参考) : 「日進」 戦没時の状況については、生存者が戦没後に纏めた「 軍艦日進戦闘詳報第第2号 ブイン輸送作戦 」 がありますのでこれをご参照ください。 (同じものがアジ歴 リファレンスコード : C08030586800 でも公開されており、これの24コマ目以降です。)

なおこの時生存者救助のために降ろした本艦の救助艇 (カッター) も転覆したが、その原因については記憶にない。
その後ラバウルを基地としてソロモンへの出撃を繰り返したわけで、主としてコロンバンガラ島やべララベラ島等の撤収に伴う作戦が実施され、ある時は第3水雷戦隊司令官直率の夜襲部隊に入り、また時には当隊司令指揮の輸送隊となったりして作戦したが、毎度のことながら、ラバウル出撃後大抵敵大型機の触接を受け、夜になって敵水上部隊と遭遇すると夜戦となっていたものである。
司 令
当時第17駆逐隊の新司令は戦前アメリカに駐在したことのある極めて頭脳明噺な人 (宮崎俊男 大佐 兵48期) であったが、戦闘のやり方については戦後何かと批判は受けておる。
次のことはこのこととは関連はないが、ある日、夜半、戦場近くなって海図台に入ってこられた司令が 「おい通信、位置はどこだ」 と言われたので、「ここです」 とお答えしたら、「それでは、こう変針してこう行こうか」 と私に問いかけるように言われながらコースをひっぱられた。
私はただ 「ハア」 と言うだけで何ら返事のしようもなかったが、司令はおそらく決心をロに出して言いながら自分の心に念をおされていたものと思う。
しかし全然敵情のわからない暗夜の中を司令一人でこのような作戦を指導されるとは大変だろうなと思った。
なお戦場では退くより突進する方にむしろ活路を見出せるものと開いているが、この辺の決心が指揮官の勇猛か然らざるかによるものであろう。
(続く)
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