伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
「磯風」 乗組
18年4月、同じ隊の 「磯風」 乗組に発令された。
同艦はその2月、ガ島撤退作戦中に爆弾が一番砲塔を直撃し、付近の士官室や居住区も吹き飛ばされたため、既に呉に帰投し、川原石沖の目指しブイに係留中であった。

( 呉軍港内繫留浮標位置 赤丸が駆逐艦用 1944年の米軍史料中の旧海軍軍機海図複製より )

( 昭和5年の呉・川原石沖の駆逐艦係留状況の写真 )
(参考) : 第3次のガ島撤収作戦における 「磯風」 の損傷状況の詳細については、先にご紹介した 「 第17駆逐隊戦闘詳報第2号 「ケ」 号作戦 」 (アジ歴 リファレンスコード : C08030146300 でも公開) に記載されていますのでご参照ください。
そこへたまたま 「浦風」 が入港し、同艦に横付けしたので、私は全くのブイツーブイで転勤していった。
「磯風」 では通信士兼第三分隊士を命ぜられ、配置だけは1人前となったが、未だ候補生の身とて上陸しても外泊はなく、非番のときも帰艦後は大抵家族持ちの特務士官に当直を代わることとしており、いつも艦内宿泊のため、突貫工事で夜半過ぎまでやる鋲打ちのあのガタガタというものすごい音には随分悩まされたものである。
なお昼間は、被弾の際ほとんど流出した赤本 (秘密の図書類のこと。表紙・裏表紙が赤色の紙で印刷・製本されていましたのでそう呼ばれていました) の受込み整理や、分隊員の履歴作り、及びそれに伴う善行章、叙位叙勲等一切の人事に関する事務のやり直しで、結構忙しい毎日であった。
休 暇
ここで少々すっきりしない思い出を記す。
修理中、各自一週間の休暇が付与された。 ただし当時の規則では戦地に半年以上いた者に一週間の休暇が与えられることとなっていたので、私は前艦での戦地勤務が3か月しかなく、正規に解釈すれば資格はないと思い、随分考えはしたが、前年は開戦のため兵学校の休暇も取りやめられたことであり、再度の出撃も迫ったので、ちょっとでも帰郷してきたい思いにかられ、思い切って2日間の休暇をお願いしたところ、規則はどうなっているかと言われて、何とも答えようはなく、そのような気持を起こしたことに対し、ただただ恥じ入るばかりで深く自省自戒したもので、そのときの心境を自啓録に長々と書きとめている。
したがって以下後年の所感であるが、自分の非を棚に上げてこんなことを言えた義理ではないが、当時、許可してくれなかった上司は優秀な人であったけれども、何ぶん年齢的にはまだ20歳台の半ばにも達しておらず、ちょっとの思いやりに気づかなかったのであろう。
もしもあの時 「貴様はまだ戦地の勤務が3か月しかないから休暇も半分しかないぞ」 とでも言われていたらどんなにか感激し、一点のわだかまりもない心からのやる気を出していたことかと思う。
このことからも私は海上自衛隊においては休暇に関し、差し支えない限り善意に処理するよう努めてきたつもりである。
(続く)
(補記) : この休暇についての故伊藤茂氏の所感は、当該記事を読んだときに全く “我が意を得たり” と思い、私の現役の時に常に頭の中に残るものとなりました。
そして、いわゆる功なり名を成したと言われる人達が書き残したもので、この様なことを素直に書かれたものは他に見たことがありませんでした。 それ故に、私が故伊藤茂氏を師と仰ぐ理由の一つとなったのです。
このブログでも私のかつての現役時代のことを次の2回の連続記事で書いたことがありますが、そこで出てくる現役の時のような例のことは、この故伊藤茂氏の記事のことが頭にあったからでもあります。
「親の死に目に」 :
http://navgunschl.sblo.jp/article/179628438.html
隊員本人が 「心おきなく勤務に励めるようにする」 ということがどういうことなのか。 これが即ち、上司として部下を 「人として大切にする」 「人を育てる」 ということの大きな命題の一つだと思います。
しかしながら、海自では、この回想録にあるような旧海軍の悪しき慣習をそのまま引き継いで、部下に 「命令だ!」 「規則だ!」 と押し付けることが (上にアッピールする) 自己の指導力だと勘違いしている者、それも肩書とか階級に執着する自称エリート達の中に結構います (いました)。
このことが結果として、世間一般から海自が 「人を大切にしない」 「人を育てない」 組織だと言われる大きな原因となっています。 いえ、私自身でさえ現在でも、海自とはそういう組織であったと認識しています。 船乗りとしての現場は面白く、良いところで、自分の選んだ道に悔いは無いのですが ・・・・
この 「人を大切にする」 「人を育てる」 ということが、何も優れた知識技量を有する隊員に教育訓練する、ということだけでは無いことはお判りいただけるでしょう。
要は、もっと大きな、いかに人生の仕事としてのやり甲斐を見出させるのか、いかに自己の職務に打ち込むことができるようにするのか、という問題なのです。
昨今イージス・アショアの代替えとして海自がこれを搭載する艦を建造する案が出てきましたが、海幕長自らが何を勘違いしたのか、いの一番に 「現場の負担が ・・・・ 」 と言い出したのをご記憶の方も多いと思います。
海自艦艇部隊で昔から常態となっている低充足率も、私は決して若い人達に艦艇勤務の魅力が無いわけではないからと考えております。 では何故この低充足率が慢性化し、若い人達の艦艇勤務希望が少ないのか。
その最大の原因の一つが “世間一般の目から見た” 組織としての海自の 「人を大切にしない」 「人を育てない」 ということなのです。
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http://navgunschl.sblo.jp/article/188120765.html
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