伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
「春雨」 曳航
昭和18年2月初めのガダルカナル撤退作戦も一段落したので、第十戦隊司令官小柳少将 (富次、兵42期) は本艦 「浦風」 に乗艦してショートランドを出港、途中ラバウルに寄港し、2月11日の紀元節を白服でお祝いした後、トラック島に帰投、将旗を旗艦 「阿賀野」 に復帰された。
続いて本艦は第十六駆逐隊の 「天津風」 と共にウエワーク (ニューギニア) への輸送任務に従事し、帰途は艦首をやられて同地沖に待機中の 「春雨」 を曳航することとなり、最初 「天津風」 がとも曳き ( 「春雨」 を後ろ向きにその艦尾を曳航すること。 したがって通常の艦首を曳航するやり方より抵抗が大きくなります ) で実施したが、途中曳索切断のため 「浦風」 が交代し6ノットでとことこトラック島に帰投した。

( ウェワクの位置関係 Google Earth より加工 )
(参考) : 「春雨」 はウェワクへの輸送任務中の1月24日にウェワク沖で米潜 「ワフー」 (USS Wahoo, SS-238) の雷撃を受けて前部大破、ウェワクにおいてトラックから進出した救難船兼曳船 「雄島」 の支援による応急措置を受けていたとされています。
しかしながら、この時の 「雄島」 の行動については当回想録及び旧海軍史料には出てきませんで、「春雨」 のトラックへの曳航時にも 「天津風」 と 「浦風」 に同航したのかさえ不詳です。 そして僅か800トンの雑役船とは言え専用の救難船兼曳船ですので、同航していたとするなら、何故 「雄島」 が曳航しなかったのかなどの疑問が残ります。

( 米潜 「ワフー」 自身の撮影による被雷時の 「春雨」 )
ところでこの時、同島環礁内の水曜島が蓬か水平線上に見え始めたころ、岩上艦長から 「航海士、艦位は出たか」 と聞かれ、「今出しています」 と答えたのはいいが、15分たっても20分経ってもうまく入らず、結局、もっとしっかりやるよう注意を受けた。
その時の艦位は右艦首方向の水曜島山頂の一方位で入れていたもので、針路との交角が小さく、しかも実速約6ノットでは方位の変わりが少なくて新米航海士の私にはうまく入れることができなかった。
そしてこんな状況下でそう簡単に入るわけはないと思い、これだけ一生懸命やっておるのにと不満に思ったが、あとになって考えてみると、艦長は当時経験20年のベテランで何も彼も知り尽くしておられた筈、技量未熟もさることながら、乗艦後いつまでもボヤボヤしている私に、ここらで一発喝を入れられたのに違いないと後年思った。
(参考) : トラック環礁内の四季諸島と七曜諸島などの主要な島々の中で、最も高いのが水曜島 (Tol I.) の山頂 (Mt. Winipot) で、標高は1453フート (443m) です。 したがって、気象・海象の条件が良ければ30マイル以遠からその山頂が望めるようになり、方位が測れるようになります。
しかしながら、「春雨」 を曳航しながらの6ノット程度で南方向から環礁に向かうのでは、上記にあるように艦首方向近くに見えるこの一方位のみで正確な艦位を出すのは、兵学校卒業後まだ3ヶ月程度の候補生としてはかなり難しいと言えるでしょう。


( 1991年版の米国防地図局のTPC (Tactical Pilotage Chart) より )

( トラック諸島を北側上空から南方向を見たところ 赤丸が水曜島 1944年の米軍史料より )
その後トラック島在泊中、環礁内で駆逐艦による大艦の曳航訓練が計画実施され、本艦は先ず軽巡 「阿賀野」 の曳航をやり、これが成功したので、次は対空母について計画された。
私も夜は士官室の隅で汗をふきふき曳航抵抗の計算を一生懸命やらされたが、この方は実施されずに終わった。
定員外
当時私は隊付のままで乗艦指定をされていた身で定員外であったため、私室はなく士官室の隅に全財産の行李を1つ置き、寝るのはソファーや椅子の上であったが、停泊すれば士官室には大抵夜おそくまで誰かがいるので眠たくなっても自分勝手に寝ることはできず、また航海中食べるよりは寝ていたいと思うときもそういうわけにはいかず、終始どうも落ち着いた心境にはなれなかった。
なおたまに勉強らしいことをしていると親切な高等商船出の小沢航海長が 「俺の部屋を使いなさいよ」 と言って下さったし、また航海中、昼間非番のときは、機銃員が煙突横の機銃台にうまく日陰をつくって歓迎してくれたので、おおむねそこへ行って休んでいた。 皆さんのちょっとした心遣いが身に沁みたものである。
それにしても私はどうも気を使い過ぎたように思う。 その点今の若い諸官は新しい環境にもすぐ馴染み、堂々と振舞っているようで、良いことだなと思う。
(続く)
(参考) : 候補生が駆逐隊に配属される場合、海軍省の辞令は 「隊付」 で、これを受けて隊司令が各艦への乗艦指定を出し、各艦長が職務指定をします。 したがって、各艦の定員表に基づくものではありません。
内令による 「陽炎」 型の昭和20年2月現在での定員表は次のとおりとなっています。
即ち、駆逐艦長の他、准士官以上は士官6名、特務士官2名、准士官 (兵曹長) 3名の計11名が定員ですので、候補生はまさに “定員外” です。
そして艦長室の他は、前部にある士官私室4部屋でベットが計7つ、後部の第二士官室にベットが4つです。

( 残念ながら綺麗な図面がありませんが、「陽炎」 型の一例です )
もちろんその時に准士官以上に欠員がある場合でも、候補生は士官私室などの空き室、空きベットは使わないのが躾けとされていました。 中型艦以上の場合では、候補生は士官室前の通路などにハンモックを吊るケースがあるようですが、駆逐艦などの小型艦艇の場合にはそのスペースはありませんので、上記のように士官室で寝起きすることになります。
もっとも、「陽炎」 型でも後期艦では上図のように士官室のソファーの上部に夜間用の仮設ベットを設置できるようになっていたものがあるようですが ・・・・
とは言え、本ページ最初に書かれているように戦隊司令部などが乗ってきた場合には、その期間は個艦の士官達も参謀や幕僚の上級者のために自分達の私室を明け渡さなければなりませんので大変です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
次 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (5)
http://navgunschl.sblo.jp/article/188117645.html
前 : 回想録 『一若年士官の戦時体験記』 (3)
http://navgunschl.sblo.jp/article/188102151.html